2015年04月07日17時15分
斬られ続けて五十六年、時代劇の黄金期よ、再び! 福本 清三 俳優
こんなにも控えめで、シャイな役者が、ほかにいるだろうか――。
〝五万回斬られた男〟福本清三のことである。
時代劇の黄金期から、今日まで、実に五六年間、ひたすら斬られ続けてきた。
そんな職人肌の老優に、いま、燦々と、スポットライトが当たっているのだ。
六〇歳でハリウッドデビューし、七一歳で初主演。
ああ、だから人生は面白い。
福本 清三(ふくもと せいぞう)
1943年、兵庫県城崎郡香住町(現・美方郡香美町)出身。俳優。
1958年、15歳で東映京都撮影所の専属演技者となる。
以来、今日まで56年間にわたり、多くの映画・テレビ時代劇に出演し、“5万回斬られた男”との異名を取る。
2003年、トム・クルーズ主演のハリウッド映画『ラスト サムライ』に出演、好評を博す。
2014年、京都・太秦の撮影所を舞台にした映画『太秦ライムライト』に俳優人生で初主演。
カナダ・モントリオールで開催された第18回ファンタジア国際映画祭で日本人初の最優秀主演男優賞。
国内に於いても第22回日刊スポーツ映画大賞・石原裕次郎特別功労賞、第33回京都府文化賞功労賞を受賞した。
著書(共著)に『どこかで誰かが見ていてくれる』(集英社)など。剣会所属。
木村政雄編集長スペシャルインタビュー
俳優 福本 清三
木村 福本さんの初主演映画『太秦ライムライト』を拝見しました。老いた斬られ役ひと筋の俳優と新人女優さんの心のふれあいが描かれた作品でしたが、ファンタジア映画祭で、最優秀作品賞と最優秀主演男優賞をダブル受賞されました。おめでとうございます。
福本 いえ、自分でも情けなくて、僕が主役では映画になりませんって、何度もお断わりしたんですけど……穴があったら入りたいくらいです。五十数年やってきて、たったこれだけかなどと言われそうで。
木村 そんなことないですよ! 時代劇人気が衰退していく中で、寡黙な主人公の時代劇への愛情と、一本筋の通った生き方が福本さんの謙虚な人生と重なり合っていて、感動しましたよ。六〇歳のときには『ラスト サムライ』(二〇〇三年)でハリウッド進出も果たされています。年齢を重ねるほど輝きを増す人生って素敵ですよね。まさに本誌のめざすところです。
福本さんは兵庫県の日本海側にある香住町(現・香美町)でお生まれになったんですね。あの辺り、佐津とか柴山とか香住ってカニのおいしい所で、僕も何年か冬に通った記憶があります。そんな福本さんが京都へお出になったのは一五歳のときでしたね。
福本 あの頃は、長男は家を継ぎますが、次男、三男は、みんな町に出て行って、自活の道を探したんです。京都西陣の織り屋とか神戸の町工場とか、多くは住み込みの仕事でしたね。
木村 お名前が清三さんですから、三男坊ですよね。
福本 はい。私は勉強が嫌いで頭も悪かったんで、とにかく町に出ようと思ってたら、中学を出て京都の親戚の米屋から話があって、働き出すことにしました。まだ、テレビもない時代で、町ではスーツをピシッと着て働くイメージだったんですけど、全然違っていました。それに米屋では「まいど、おおきに」と言わないといけない。それが恥ずかしくて、どうしても言えなかったんです。それで何か他にできる仕事はないかと、京都で不動産屋をしている叔父に相談したら、「東映に行くか」と言われたんです。「東映って何してる会社や」と聞いたら、映画会社やと。それまでまったく映画のことは知らなかったんです。
木村 でも当時は日本映画の黄金期でしたから、普通はなかなか入れないでしょう?
福本 いえ、むしろ時代劇の仕出し(エキストラ)がいくらでも必要なときで、すぐに採用されたようです。撮影所の人に付いていったら、ここがお前の部屋やで、ここがメーキャップの部屋やで、と。
木村 でもいま思えば、やはりルックスが役者さんに向いていたのでは? 彫りが深くて背が高く、手足が長いじゃないですか。
福本 そんなアホな……。役者というより、子どもの遊びみたいなものでした。友だちも、ここに来て初めてできたようなものやし、メーキャップだの衣裳だの、さっぱり分からへん。先輩にどつかれながら、現場で覚えていったんですわ。
木村 最初は何からスタートするんですか。
福本 通行人からですね。キャメラも見えないところで、そらもう何年もやりました。「合戦」シーンでは、槍や旗を持って、ワーッと走る。「馬に負けんと走れ」と怒られ、心の中で「馬に勝てるわけがないやろ」と突っ込みを入れながら走ったり。
木村 死体の役も?
福本 はい。スターさんに怪我をさせたらエライことですから、殺陣(たて)師が、こいつは絶対大丈夫と思うまで、立ち回りをさせないんです。だから、初めは町人役で、ようやく侍になれても死体ですわ。実は死体も難しいんですよ。まぶたをピクリともさせられへんし、冬の土左衛門(水死体)は、体の震えを止めるのが難儀やし。でも、死体役って名誉な役なんでっせ。だって、ちゃんと映るから。死体役とかやらせてもらえるのは上級クラス。私もやらしてもらったのは、相当経ってからですわ。
木村 その頃のギャラって、どのくらいだったんですか?
福本 日給月給制で、一日二五〇円ぐらいでした。姉のところに居候していたから何とか食えたんですが、パンが一五円、市バスが一五円くらい。あるとき給料が二万円もあってびっくりしたら、実は二〇〇時間以上残業してました。
木村 福本さんの三歳下の私は、京都育ちですが、当時は市電が一五円で煙草のハイライトが確か七〇円くらいだったのを覚えています。でも日当二五〇円では飲みに行くこともできませんね。
福本 酒なんてとんでもないです。でも会社で仕事をしているときは、会社の食堂で食べさせてもらえたんです。それが唯一の食事で、自分ではメシが食えないことが多かったですね。あの頃はロケ弁も出なかったんです。いまでこそ、おにぎり一個でもコンビニで買えますが、当時はコンビニもないし、弁当を作るのも大変。徹夜明けには、朝食が出るんやけど、徹夜でないときは自分でパン一個買うのがやっとでした。たまに先輩が食べさせてくれることもありましたが、そうそう甘えるわけにもいかへん。結局お茶だけで朝から晩まで「合戦」で走り回って、実際、栄養失調で倒れたこともありました。まあ、あの頃は自分も若かったし、撮影所には活気があって、楽しかったですけどね。
日本一の「斬られ役」誕生
スタントマンとして磨いた技術
木村 お仕事の転機は、スタントマンの草分けとして有名な宍戸大全(ししどだいぜん)さんが東映に入社されたときですか?
福本 そうですね。僕らもそれまでスタントはやっていたんですが、何せ我流でやっていただけでしたから、バネといっても跳び箱をとぶぐらい。でも宍戸さんが来られてからは、トランポリンやスポンジマットを使うようになって、高いところからカッコよく飛び降りたりできるようになったんです。忍者ものもはやりましたね。
木村 宍戸さんって元体操選手で、長谷川一夫さんや市川雷蔵さんら、大スターの吹き替えや忍者役などで有名な方でしたよね。福本さんは、もともと運動神経が抜群なんですよね。
福本 僕は田舎の出身で、山の中、川の中を走り回って育ったので、足場の悪いところが得意なんです。調子に乗って忍者の集団が山から駆け下りるシーンで、親分役のスターさんを追い抜いて先頭を走ってしまい、めちゃくちゃ怒られました(笑)。宍戸さんのところでスタントをやるようになって、監督と演技について話し合ったり、衣裳やカツラもちゃんと自分に合わせて作ってもらえたり、ようやく役者扱いをされるようになってからは、やる気も出ましたね。二〇代後半の頃でしたね。
木村 その代わり、怪我も多かったんじゃないですか。
福本 怪我は絶えませんでしたね。スタントはイチかバチかでやらなきゃいけませんから。でも、怖いとも思いませんでした。第一危ないと思ったら何もできません。どんなに痛くても平然として、不死身のフリをしていないと、次の仕事がもらえなくなりますから。
木村 萬屋(中村)錦之介さんの『丹下左膳』のスタントは大変だったそうですね。
福本 やってみて、人間は両眼、両腕でバランスをとっているのがよう分かりました。塀を飛び越えるとき、丹下左膳の隻眼隻腕(せきがんせきわん)ではバランスがとれへんのです。跳び上がったかと思ったら、顔から落ちて起き上がれなくなったんです。「福本が首を折った」と大騒ぎになりました。何しろ二メートル近いところから落ちましたからね。ほんと、死ぬかと思いました。家に帰っても何日か思うように動けなかったほどですわ。
木村 映画『蒲田行進曲』の階段落ちみたいな仕事もされたんですか?
福本 色々やりましたよ。僕は、鶴田浩二さんが近藤勇を演じた『新選組』でやらせてもらった階段落ちが忘れられませんね。鶴田さんが、自ら羽織を脱ぎ、〝死体〟の僕にそっと掛けるという台本にはないシーンをアドリブで演じられて、すごいなと感動しました。
木村 スターさんも、斬られ役の人がいるからこそ、そうやって引き立つわけですよね。
福本 あの頃の撮影所は、大スターさんばっかりやったから、僕らがともかく一生懸命やって、輝かなあかん。僕らがなんぼ輝いても、スターさんはそれ以上に輝きますから、がんばろうという感じでした。
木村 福本さんはいままでにいろんな大スターの人たちと立ち回りを演じてこられたわけですが、「この人はすごかった」という方はどんな人ですか。
福本 皆さんすごかったですね。立ち回りには、人それぞれ癖みたいなものがあるんですが、僕がいちばん好きだったのは、錦之介さんですね。侍、ヤクザなど、演じる役によって立ち回りを変えておられ、それがみなカッコよく決まるんですね、スゴイ人でしたよ。
木村 その錦之介さんに、「斬られ方がうまいということは、芝居ができるということや」と褒められたことがあったそうですね。
福本 ええ、初めは冗談かと思いました。確か五社監督の『丹下左膳』の撮影のときでしたが、立ち回りが終わったところで「お前、死に方がうまいな。斬られ方がうまいということは……」と。そのとき僕は、斬られることも大事な仕事なんやと改めて気がついたんです。錦之介さんの言葉で、僕のやってきたことが間違いやなかったんやと、自信を持てるようになりました。
木村 そうなってくると、次はセリフのある役をやりたいとか、欲も湧いてきたんじゃないですか?
福本 確かに、大部屋に入る人は、いつかはセリフのある役者になりたいと思っています。大部屋俳優から個性派俳優に上りつめた川谷拓三(俳優/故人)なども、スターを夢見てやってました。ただ、僕の場合は、役者になろうなんて気はまったくなかったんです。たまたま入った会社が映画会社だっただけで。それに、スタントをやりだした頃、たったひと言、「申し上げます!」というセリフのある役をいただいたことがあるんです。それまではキャメラが見えないところでやっていたのが、目の前にキャメラはあるし、監督は座って、こちらを見ているし、頭の中は真っ白になって、NGを連発したことがあるんです。それがトラウマになって「あかん! 俺にセリフはいらん、殺陣だけでいく」と決めたんです。
見事なエビ反りで斬られる福本さん
定年の年にハリウッドデビュー
大部屋俳優の意地を世界が認めた
木村 斬られ役のエリートといわれる東映剣会(つるぎかい)に入られたのはいつ頃ですか?
福本 当時の剣会には一〇〇名以上の会員さんがいて、入るのには難しい試験があるんですが、僕は現場でスターさんの代わりの立ち回りをずっとやってきて、剣会以上のことをやっているという意識もあったんで自分から試験を受けることはしてなかったんですが、誘われて入ったのは、確か二五歳くらいのときでしたかね。ここに入ると立ち回りができるということで、「技量手当」が付くようになるんです。
木村 そんな時代劇も一九六〇年代以降は衰退して、東映も任侠路線に転じるようになりましたよね。
福本 時代劇の全盛期には大部屋俳優は四〇〇~五〇〇人いましたが、仕事がめっきり減って食えなくなって、多くが辞めていきました。幸い僕の場合は、固定給だったので何とか続けられましたけど。高倉健さんらの任侠映画になって、日活でポルノが当たった時期には東映もポルノをやりました。それもあかんようになって、そして深作欣二監督の実録モノに変わっていったんです。
木村 その間、福本さんはどうされていたんですか?
福本 必死でやりましたよ。いい加減にやったらケガしますからね。千葉真一さんらのアクション映画の頃は、見よう見まねで、空手も覚えて、ボクシングから転向してきたガッツ石松さん、プロレスのアブドラ・ザ・ブッチャーさん、キックボクシングの沢村忠さん、みんな怖かったですよ。僕らは寸止めをするんですが、彼らは本当に当ててくるんです。
木村 そうこうしているうちに『ラスト サムライ』撮影中に、福本さんは六〇歳。
福本 そうなんです。僕が幸運だったのは、固定給で健康保険などの福利厚生もあり、いまは年金ももらえていること。年金をもらっている役者さんってなかなかいないでしょ?
木村 定年も年金も、聞いたことがないですね。ところで、ハリウッド映画はいかがでしたか。
福本 日本と違いますね。例えばトム・クルーズさんと僕の絡みのシーンですが、十数回も撮り直したんですわ。僕ら、主役に対しては寸止めするように習ってきたんですが、あちらは寸止めはノー。天下のトムさんを、監督が「もっと叩け」と言うんです。トムさんも「自分は鍛えているから大丈夫だ、叩け」と言うんですね。十何回も撮って、僕は謝ってばっかりだったんですが、実はハリウッド映画では、十数回撮るのは普通なんだそうです。立ち回りも、日本は「型」を重んじますが、あちらは徹底してリアルなんです。カツラも使わず、頭のてっぺん(月代(さかやき))を剃って、自毛で髷まげを結うんです。
木村 福本さんのセリフのない、渋い演技が光っていましたよ。
福本 あれは「無表情で」という監督からの指示だったんですが、どうしたら無表情になるのか、ほんまに難しかったです。
木村 日本人のエキストラが五〇〇人もロケ地(ニュージーランド)に行ったそうですね。
福本 ええ。あの戦場シーンを撮るために、実際に二カ月間、毎日軍事訓練のようなトレーニングを積んで、リアルに撮るんです。驚いたのは、戦場シーンの撮影が終わったとき、トムさんがみんなの前で演説するわけです。「皆さんのおかげでいい映画が撮れた、ありがとう!」って。普通の現場ではスターさんとその他大勢には隔たりがあるんですが、彼は「現場に出たらみんな一緒」やと。大感激で、僕も胸が熱くなりましたね。
「どこかで誰かが見ていてくれる」
そう信じて、死ぬまで斬られ続ける
木村 話は変わりますが、ご結婚されたのは二五歳ですよね。いま流行の「できちゃった婚」を半世紀も前に先取りされて……。
福本 もう、お恥ずかしい限りで(笑)。
木村 奥さまは一九歳で結婚されて、大変だったんじゃないですか。福本さんが一度、「もう、やってられへん」と弱音を吐いたとき、奥さまに「役者を辞めるんなら、私の青春を返して」と厳しく叱られたことがあると聞きましたが?
福本 あはは。もう、忘れましたよ。みんな貧乏で、苦労してやってきましたからね。
木村 その夫婦喧嘩をなさった頃は、どちらにお住まいだったんですか。
福本 妙心寺の裏のアパートを借りていました。三万円の頭金が払えなくて、みんなに借金して。
木村 当時はお金がなくても皆で助け合う、そんな温かい雰囲気があったんですね。でも、それからおよそ五〇年。撮影所の中も周辺も昔の活気は消えて、本当に寂しくなりました。私もこの頃は年のせいか、テレビといえば時代劇専門チャンネルを視ているんです。時代劇の復活を心から願っているんですが、何とかなりませんかね?
福本 現代劇だと、街に出ればいくらでも撮影出来るわけです。だけど時代劇の場合は美術から衣裳や小道具、通行人まで全部作り込まなあかんから、僕らにも仕出しの仕事がまわってくるんですが。本当に情けないことです。かといって時代劇を一、二本制作したところで、昔みたいな賑わいは戻ることはないと思います。最低でも三、四本を同時につくる体制でないと。
木村 時代劇は視聴率が低いと言われますが、潜在的な時代劇ファンって多いと思うんです。福本さんは今回『太秦ライムライト』で主役を務められましたが、やはり主役ともなると興行収入などが気になりましたか?
福本 生まれて初めて、色々心配しました。待てよ、この映画、どこで上映するんやろとか、興行収入はどうなんねん……とか考え出すと寝られなかったですね。スターさんは、こうした興行収入や視聴率といったものを背負ってらっしゃるわけで、色々本当にすごいなと思いましたね。
木村 いっそ、こうなったら、大ブレイク中の福本さんを主役に、「斬られ役一代記」とか、NHK朝の連続テレビ小説にすると面白いと思うんですけど。
福本 そんなアホな、誰が視ますかいな(笑)。
木村 お書きになった本のタイトルにある、「どこかで誰かが見ていてくれる」という福本さんの言葉、胸に響きました。そのココロを教えてください。
福本 かつて四〇〇人もいた大部屋俳優の中で、誰も僕らを見ているわけがないんですが、「誰かひとりでも見てくれている」という心を失ったら、僕らはおしまいです。ただその一点を信じて、斬られ役の意地を見せたい。僕の斬られ方のひとつ「えびぞり」も、そういう気持ちから生まれてきたものです。
木村 なるほど。そして”五万回斬られた男”になられたというわけですね。
福本 これも初めは”二万回斬られた男”だったんです。これまで出演した時代劇の総本数から、ある記者さんが計算して出した数字なんですが、メディアに取り上げられるうちに、いつの間にか五万回に増えていました。昨年、日本外国特派員協会の会見で外国人記者に「本当に五万回斬られたのか」と聞かれて、えらいこっちゃ、と(笑)。
木村 あははは。リハーサルの回数も入れたら、五万回どころじゃないでしょう。いいんじゃないですか。
福本 五十六年間、これだけ好きなようにやらしてもろて、こんなラッキーな人生はないと感謝しています。
木村 これからもお元気で、生涯斬られ役道を貫いてください。本日は本当にありがとうございました。
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対談後記
かっての活況は失せたとはいえ、映画の聖地・京都撮影所を訪ねるとあって気分は高揚していた。何しろ私が最初に観た映画「紅孔雀」「笛吹き童子」が撮られた所である。おまけに対談場所が、歴代のスターが滞在した俳優会館だというのだから。幸せ気分に浸りながら待っていると、現れました! 福本さん。一瞬、主役に切りかかる鬼のような形相で? とも思ったのだが、実に穏やか。「悪役を演じる人に本当の悪人はいない」と言われるが、正にその典型のような人である。「長くやっていると、自分の器量がこの程度やなと分かります。かといって投げやりにならず、自分の立っている場所で一生懸命やってれば、必ずそれを見てくれてる人がいるんです」けだし至言である。斬られ方ばかりでなく、生き方においても達人の趣を兼ね備えた人であった。
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