2015年01月08日16時13分
ビジョナリーな人たち 厚沢部ドライバーズスクール 代表取締役社長 高田一弥
厚沢部ドライバーズスクール 代表取締役社長 高田一弥
高田一弥(たかだ かずや)
1953年、厚沢部町生まれ。小5から車の運転をはじめる。高校を卒業したのち、「道外の大学に行っても、きっと帰ってくるんだろうなと思いながら受験したら、やっぱり不合格でした」と、家業である自動車学校の経営に専念する。厚沢部ドライバーズスクールは昭和35年創業。昭和55年に指定自動車教習所の認定を受け、平成17年には観光事業の資格を収得する。
厚沢部町で自動車学校を営む高田一弥さんは
近年、観光バスの営業も平行してスタートさせた。
「経営は徐々に、ゆっくりと、状況を見極めながら」というスタイルは、雪道教習を思わせる。
しかし北海道で自動車教習を受けた人は、どんな道でも乗りこなせるオールマイティードライバーになれるという。
高田さんの語る仕事観も、すべての職種に通じるもの。
「広い視野」は車の運転にも人生にも大切なのだとおしえてくれる人である。
自動車教習所の要はドライバーの心の教習
北海道の冬の運転には、他とは違う常識がいくつもある。まず雪で車線が見えない。急ブレーキをかけてタイヤがロックすれば、カースタントばりに車が回転してしまう。FF車とFR者それぞれに、スリップの仕方も違うと改めて知らされ、雪用のワイパーが存在することも教えてもらった。ときにエゾリスが全速力で突っ切るような道を、どう乗りこなせばいいのだろう?
「今日はアイスバーンになっていたはず。ここまでよく運転して来ましたね。心配で、何度も迎えに行こうと思いましたよ」と温かく迎えてくれたのは厚沢部ドライバーズスクールの高田一弥社長。そういえば厚沢部町には鉄道が通っていない。一家に車一台ではなく、一人に車一台が常識のこの町で、自動車学校の果たす役割は重い。
「でもね、自動車教習のカリキュラムは全国どこでも同じなんですよ。ただここでは雪道教習を学ぶことができる。冬の北海道で運転を習ったら、どんな道でもオールマイティーのドライバーです」と高田さんは言った。
高田一弥さんが運転をはじめたのは、なんと小学校5年生である。
「最初は実家の裏の川原にロープを張った、教習コースを作り指導していました。小学校5年生になったとき、親父が『休みになったらお前に運転を教えるぞ』と言ったんです。そしたらそれを知った当時の担任の先生が『お前から車の運転を習いたい』と(笑)。公道でなければ子どもでも運転できるので、学校の先生に教えることになりました。
中学生になると、無免許で運転するようなヤツも出てきて、『高田も運転しているんだからいいじゃないか』と言われないように、私も運転禁止になりましたけどね。高校生になって、バイクの免許を取った頃には、函館にバイクの免許を取りに来ていた人に教えていました」
「私はこの世界しか知らないんですよ」と、高田さんは言う。しかし最初からずっとこの仕事をすると決めていたわけではない。二十歳のときには青年たちを東南アジアに派遣して、海外の青年活動を勉強する道内の事業『道民の船』にも参加した。
「『道民の船』は、道内の二十歳の人ばかりを集めて、1ヶ月間、東南アジアをめぐりました。旅のほとんどは船の中だったのですが、一緒に参加した人たちと語り合う時間がたっぷりあり、さまざまな人との出会いがありました。そのときに思ったんです。人と交わり、関わることで、自分のためにも町のためにも何かできることがあるのではないかと。帰国してからは青年団組織を作り、長を務めてさまざまな活動を行いました。
青年団の活動は、地域のボランティアが主です。祭り事の企画や参加、演芸会から演劇、音楽会など何でもやりましたよ。当時は娯楽などあまりない時代。映画を見るなら函館。当時は江差にも映画館がありましたけれど。江差で『エレキの若大将』を見て、そのときから加山雄三のファンです(笑)。とにかく町の若い連中は、そのようなことに飢えていたと思います」
「元青年」は60代を迎えた今、厚沢部町議会議員を務めてまちづくりへの情熱を燃やし続けている。
雪道運転でのスリップ体験。万が一に備えます。
自動車学校と観光バス
少しずつ走り始めた両輪
鮮やかな黄色が印象的な観光バス。
高田社長とドライバーズスクール校長の三上裕子さんです。
時代と共に町の様子が変化するのと同様に、家業である自動車学校もさまざまな変遷をたどってきた。日本の高度成長期であった昭和30年代、40年代は「こんな田舎でもお客さんはいました」という時代。当時、厚沢部自動車学校はまだ、指定自動車教習所の認定を取らずに営んでいた。指定自動車教習所とは、資格のある指導員を配置し、公安委員会に代わって技能試験を行うことのできる自動車教習所である。
「つまり免許を取るためには函館の試験場まで行かなければならなかったのですが、当時、ウチで教習を受けた生徒の合格率はとても高かったんですよ。
思えば私が指導の仕方を習った恩師は、道内でも5本の指に入るくらい教習技術の高い指導員でした。そればかりか、人としてすばらしい方でした。こいつにはこれを教えた方がいいなというときには、『俺の車にちょっと乗れ』といって指導方法をみせてもらったものです。それはテクニックだけではなく、運転する心を伝えてくれたものでしたね。
運転というのは技術を教えるだけではダメなんです。公道でハンドルを握るのは一人きりです。運転はその人の心を反映するので、道路上でその人の良くないクセが出ないように指導しなければなりません。どのようにするかを言葉で言うのは難しいのですが、教習を受ける人と自分との人間関係の中で築いていくというか……。教習マニュアルはその人にあわせた対応をいかにするかということであって、そのマニュアルをどれだけたくさん自分の中に持つかということを考えてやってきました。卒業生が公道で事故や違反を起こしそうになったとき、指導員の顔が浮かぶような関係を築くこと。それが私の教習の原点ですね」
平成の時代に入ると、観光バスの事業もスタートする。平成17年に観光事業の資格を収得し、「マルジュウ高田 厚沢部観光」として観光業も手がけはじめた。
「田舎で生きていくにはどうすればいいべ? と考えたとき、人は必ず減っていくわけで、地域の中だけで経済を活性化するのは難しい。だから外に目を向ける必要があるんです。観光はまさに、外から人やお金をひっぱってこれる仕事ですよね。
現在、観光バスのほうは息子が手伝ってくれていて、『バスの中はホテルの部屋と同じ。ドライバーはホテルマンと同じつもりで仕事をしなければならない』と言って頑張ってくれていますが、その通りなんです。観光業は面白いですよ。結局はサービス業ですから、人と関わりたいと思って青年団を立ち上げた頃の思いとつながることがたくさんあります」
厚沢部の山と川の風景を見ながら、「子どもの頃から無意識に、ここが死に場所だなと思ってやってきた」という高田社長。世の中がどのように変遷しても、しっかりとした根っこを持つ人は、強く、しなやかに乗り切っていくのだ。
木村の視点
少子化、若者の車離れのあおりを受けて、全国の自動車教習所はいま窮地に立たされている。そのトレンドは全国に波及し、車が必須の移動手段であるこの地とて決して例外ではない。幸い良質の教習サービスが評価を得て、今のところその影響はさほどではないが、経営者としては心しておかなければいけない外的な要件である。いまひとつは、受講者数の季節的変動が大きいこと。冬休みや春休み前は高校生の受講者が集中するが、卒業後はどうしても減少してしまう。そこで、これらを解消すべく高田社長の打った手が観光バス事業というわけだ。「観光立県宣言」をした北海道が、貸切バス事業の規制緩和をしたこともあって、この分野への進出を決めたという。北海道の観光は6月から9月の4ヶ月に年間来訪者の半分強が集中するというから、減少期対策にもなる。今のところまだ規模は小さいが、2・3年後には実を結ぶことだろう。高田社長の卓越したドライバーズ・テクニックは、厳冬の凍結した難路でもきっと発揮されると思うからだ。
高田一弥(たかだ かずや)
1953年、厚沢部町生まれ。小5から車の運転をはじめる。高校を卒業したのち、「道外の大学に行っても、きっと帰ってくるんだろうなと思いながら受験したら、やっぱり不合格でした」と、家業である自動車学校の経営に専念する。厚沢部ドライバーズスクールは昭和35年創業。昭和55年に指定自動車教習所の認定を受け、平成17年には観光事業の資格を収得する。
厚沢部町で自動車学校を営む高田一弥さんは
近年、観光バスの営業も平行してスタートさせた。
「経営は徐々に、ゆっくりと、状況を見極めながら」というスタイルは、雪道教習を思わせる。
しかし北海道で自動車教習を受けた人は、どんな道でも乗りこなせるオールマイティードライバーになれるという。
高田さんの語る仕事観も、すべての職種に通じるもの。
「広い視野」は車の運転にも人生にも大切なのだとおしえてくれる人である。
自動車教習所の要はドライバーの心の教習
北海道の冬の運転には、他とは違う常識がいくつもある。まず雪で車線が見えない。急ブレーキをかけてタイヤがロックすれば、カースタントばりに車が回転してしまう。FF車とFR者それぞれに、スリップの仕方も違うと改めて知らされ、雪用のワイパーが存在することも教えてもらった。ときにエゾリスが全速力で突っ切るような道を、どう乗りこなせばいいのだろう?
「今日はアイスバーンになっていたはず。ここまでよく運転して来ましたね。心配で、何度も迎えに行こうと思いましたよ」と温かく迎えてくれたのは厚沢部ドライバーズスクールの高田一弥社長。そういえば厚沢部町には鉄道が通っていない。一家に車一台ではなく、一人に車一台が常識のこの町で、自動車学校の果たす役割は重い。
「でもね、自動車教習のカリキュラムは全国どこでも同じなんですよ。ただここでは雪道教習を学ぶことができる。冬の北海道で運転を習ったら、どんな道でもオールマイティーのドライバーです」と高田さんは言った。
高田一弥さんが運転をはじめたのは、なんと小学校5年生である。
「最初は実家の裏の川原にロープを張った、教習コースを作り指導していました。小学校5年生になったとき、親父が『休みになったらお前に運転を教えるぞ』と言ったんです。そしたらそれを知った当時の担任の先生が『お前から車の運転を習いたい』と(笑)。公道でなければ子どもでも運転できるので、学校の先生に教えることになりました。
中学生になると、無免許で運転するようなヤツも出てきて、『高田も運転しているんだからいいじゃないか』と言われないように、私も運転禁止になりましたけどね。高校生になって、バイクの免許を取った頃には、函館にバイクの免許を取りに来ていた人に教えていました」
「私はこの世界しか知らないんですよ」と、高田さんは言う。しかし最初からずっとこの仕事をすると決めていたわけではない。二十歳のときには青年たちを東南アジアに派遣して、海外の青年活動を勉強する道内の事業『道民の船』にも参加した。
「『道民の船』は、道内の二十歳の人ばかりを集めて、1ヶ月間、東南アジアをめぐりました。旅のほとんどは船の中だったのですが、一緒に参加した人たちと語り合う時間がたっぷりあり、さまざまな人との出会いがありました。そのときに思ったんです。人と交わり、関わることで、自分のためにも町のためにも何かできることがあるのではないかと。帰国してからは青年団組織を作り、長を務めてさまざまな活動を行いました。
青年団の活動は、地域のボランティアが主です。祭り事の企画や参加、演芸会から演劇、音楽会など何でもやりましたよ。当時は娯楽などあまりない時代。映画を見るなら函館。当時は江差にも映画館がありましたけれど。江差で『エレキの若大将』を見て、そのときから加山雄三のファンです(笑)。とにかく町の若い連中は、そのようなことに飢えていたと思います」
「元青年」は60代を迎えた今、厚沢部町議会議員を務めてまちづくりへの情熱を燃やし続けている。
雪道運転でのスリップ体験。万が一に備えます。
自動車学校と観光バス
少しずつ走り始めた両輪
鮮やかな黄色が印象的な観光バス。
高田社長とドライバーズスクール校長の三上裕子さんです。
時代と共に町の様子が変化するのと同様に、家業である自動車学校もさまざまな変遷をたどってきた。日本の高度成長期であった昭和30年代、40年代は「こんな田舎でもお客さんはいました」という時代。当時、厚沢部自動車学校はまだ、指定自動車教習所の認定を取らずに営んでいた。指定自動車教習所とは、資格のある指導員を配置し、公安委員会に代わって技能試験を行うことのできる自動車教習所である。
「つまり免許を取るためには函館の試験場まで行かなければならなかったのですが、当時、ウチで教習を受けた生徒の合格率はとても高かったんですよ。
思えば私が指導の仕方を習った恩師は、道内でも5本の指に入るくらい教習技術の高い指導員でした。そればかりか、人としてすばらしい方でした。こいつにはこれを教えた方がいいなというときには、『俺の車にちょっと乗れ』といって指導方法をみせてもらったものです。それはテクニックだけではなく、運転する心を伝えてくれたものでしたね。
運転というのは技術を教えるだけではダメなんです。公道でハンドルを握るのは一人きりです。運転はその人の心を反映するので、道路上でその人の良くないクセが出ないように指導しなければなりません。どのようにするかを言葉で言うのは難しいのですが、教習を受ける人と自分との人間関係の中で築いていくというか……。教習マニュアルはその人にあわせた対応をいかにするかということであって、そのマニュアルをどれだけたくさん自分の中に持つかということを考えてやってきました。卒業生が公道で事故や違反を起こしそうになったとき、指導員の顔が浮かぶような関係を築くこと。それが私の教習の原点ですね」
平成の時代に入ると、観光バスの事業もスタートする。平成17年に観光事業の資格を収得し、「マルジュウ高田 厚沢部観光」として観光業も手がけはじめた。
「田舎で生きていくにはどうすればいいべ? と考えたとき、人は必ず減っていくわけで、地域の中だけで経済を活性化するのは難しい。だから外に目を向ける必要があるんです。観光はまさに、外から人やお金をひっぱってこれる仕事ですよね。
現在、観光バスのほうは息子が手伝ってくれていて、『バスの中はホテルの部屋と同じ。ドライバーはホテルマンと同じつもりで仕事をしなければならない』と言って頑張ってくれていますが、その通りなんです。観光業は面白いですよ。結局はサービス業ですから、人と関わりたいと思って青年団を立ち上げた頃の思いとつながることがたくさんあります」
厚沢部の山と川の風景を見ながら、「子どもの頃から無意識に、ここが死に場所だなと思ってやってきた」という高田社長。世の中がどのように変遷しても、しっかりとした根っこを持つ人は、強く、しなやかに乗り切っていくのだ。
木村の視点
少子化、若者の車離れのあおりを受けて、全国の自動車教習所はいま窮地に立たされている。そのトレンドは全国に波及し、車が必須の移動手段であるこの地とて決して例外ではない。幸い良質の教習サービスが評価を得て、今のところその影響はさほどではないが、経営者としては心しておかなければいけない外的な要件である。いまひとつは、受講者数の季節的変動が大きいこと。冬休みや春休み前は高校生の受講者が集中するが、卒業後はどうしても減少してしまう。そこで、これらを解消すべく高田社長の打った手が観光バス事業というわけだ。「観光立県宣言」をした北海道が、貸切バス事業の規制緩和をしたこともあって、この分野への進出を決めたという。北海道の観光は6月から9月の4ヶ月に年間来訪者の半分強が集中するというから、減少期対策にもなる。今のところまだ規模は小さいが、2・3年後には実を結ぶことだろう。高田社長の卓越したドライバーズ・テクニックは、厳冬の凍結した難路でもきっと発揮されると思うからだ。
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- 5L編集部
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