2015年05月28日17時24分
いくつになっても、 あなたに必要とされる語り手で在りたい。 浜村 淳 パーソナリティ
対談は意外にも互いの苦い挫折体験から始まった――。
話芸のカリスマと元吉本興業プロデューサー。
丁発止(ちょう々ちょうはっし)のやりとりから浮かび上がってくるのは
戦後のラジオやテレビの歴史であり、
人生のマイナスをプラスに変える知恵の数々だ。
自らの仕事を「地味」と表現する八〇歳は、
ピンク色のジャケットを颯爽と翻(ひるがえ)して、次の仕事場へと向かっていった。
浜村 淳(はまむら じゅん)
パーソナリティ・映画評論家・司会者。本名:塩濱 眞。1935年京都市生まれ。
同志社大学文学部社会学科(新聞学専攻)卒業。在学中にアルバイトで司会の仕事を始める。
卒業後、靴下メーカーの宣伝部で働きながら司会業を続け、
故渡辺晋氏(ベーシストで渡辺プロダクション創業者)に声をかけられ芸能界に入る。
7年間東京で働いた後、関西に戻り、テレビやラジオで活躍。
ジャズ、映画、宝塚歌劇団、歌舞伎などへの造詣が深く、博識で知られ、独特の“浜村節”で人気を呼ぶ。
1974年から現在まで、大阪のMBSラジオ『ありがとう浜村淳です』のパーソナリティを務める。
2006年、徳川夢声市民賞、2009年、第4回おおさかシネマフェスティバル特別賞、
2011年、第37回放送文化基金賞・放送文化賞を受賞。
著書に『さてみなさん聞いて下さい 浜村淳ラジオ話芸』『浜村淳のお話大好き』『淳ちゃんの名作映画をありがとう』など。
木村 お久しぶりです。お元気そうで何よりです。私にとって、浜村さんは同志社大学で同じ新聞学を専攻された大先輩なんですが、今回、資料を拝見して、吉本興業の大先輩でもあることが分かって驚きました。
浜村 アハハハ。「大」はいりませんよ、「小」先輩です。木村さんもお元気そうですが、いくつになりました?
木村 五月で六九歳になりました。
浜村 僕は今年一月、八〇歳になりました。
木村 学年で言えば、私が一二年下ですね。しかし浜村さんは年齢をおっしゃらないのがポリシーではなかったんですか? 「アラン・ドロンと同じです」とかおっしゃって。
浜村 この頃の新聞・テレビは、おせっかいでね。宝塚の女優さんと女芸人のシルクさん以外、名前の後に括弧を付けて年齢を書きますから、隠しても無駄なんですよ。ところで木村さん、新聞社に入る気は無かったんですか?
木村 ありましたよ! あの伝説のTVドラマ『事件記者』(NHK)にあこがれて新聞学専攻に入学したんですから。ある新聞社を受けて六次試験まで残り、ほぼ合格だろうと喜んでいると、最後に落とされてしまったんです。
浜村 実は僕も新聞社を受けて、同じく最終で落とされたんですよ。論文試験のテーマが「ペンは剣より強し」。その頃、埼玉県本庄市で暴力団が横行していましてね。新聞社が妨害を受けながらも一歩も引かずに書き続けたんです。これが、のちに『ペン偽らず』という本になり、『暴力の街』(一九五〇)という映画になった。そんな背景から純粋な学生たちは皆、「ペンは剣より強い」と書いたわけですが、そう書いた者全員が落とされたんです。「新聞記者を志す者は、社会の裏側を見ろ」ということでしょう。木村さんは、なぜ吉本興業へ?
木村 父が公務員だったので、九時五時の堅い勤めはしたくなかったんです。新聞社の試験に落ちた後、採用試験が受けられる会社はほとんど無くて、残っていたのが渡辺プロダクションと吉本興業。京都出身ですから、関西の吉本興業を受けました。周囲からは、「何で吉本や」と言われました。
浜村 でも後には、うらやましがられたでしょう。
木村 いえいえ、そんな実感は無かったですよ。浜村さんが芸能界に入られたのはどうしてだったんですか?
浜村 僕はね、同志社大学の放送部だったんです。当時、京阪神ではジャズ喫茶が盛んで、バイトで、ジャズや映画の解説や司会をあちこちのジャズ喫茶でやっているうちに、放送局からも声がかかるようになりました。特殊な仕事ですから、お金がよかったんです。でも親は堅い仕事に就けと言うし、新聞社に落ちた後、いったん大阪の靴下メーカーを受けて入社したんです。すると収入は減るし、仕事はしんどいし、半年で挫折。元の世界に戻ったというわけです。
木村 なるほど。そして東京の渡辺プロダクションに入られたんですね。
浜村 渡辺晋社長に誘われたんです。現役のベーシストで「渡辺晋とシックス・ジョーズ」というバンドで、ジャズ喫茶などで演奏されていました。しかしベースが下手でね。ほかのメンバーが、〝ファイブ上手&ワン下手〟と茶化すぐらいに(笑)。社長は穏やかな人で「淳ちゃん、うちは月給制だから、むちゃくちゃ仕事をしても月一回しかしなくても、給料は変わらないから、おいでよ」と。で「いくらくれるんですか」と聞くと当時、大卒の初任給が約一万円だったんですが「六倍出す」。二つ返事で入社しました。一九五八年、二三歳のときです。
木村 どのくらい、東京にいらっしゃったんですか?
浜村 七年くらいですね。最初、ザ・ピーナッツと一緒に社長の家に住まわせてもらっていたんですよ。
木村 まさに、渡辺プロダクションの草創期ですね。
浜村 伸びていく勢いがありましたね。ザ・ピーナッツとロカビリーブームで大きくなった会社で、ご夫婦の息もピッタリで経営も上手でした。
木村 渡辺社長は、ベースが下手でよかったわけですね。
浜村 もし、上手だったら単にひとりのベーシストで終わりですが、下手だったからこそ、経営手腕を発揮し、芸能界の仕組みを変えた人物として歴史に名を残されたんです。人間、何が幸いするか分かりませんね。渡辺プロで司会などをしながら、関西のジャズ喫茶にも出ていたときに「落語をやりませんか」と誘いに来られたのが、このあいだ亡くなられた桂米朝師匠です。「いま上方落語は衰退している。弟子は小米(後の桂枝雀さん)しかいない」と。しかし僕はジャズ・映画の解説で定着していたので「いまさら落語に変わるのは無理です」とお断りしたんです。米朝師匠は「それならそれでええ。今後、演芸について分からんことがあったら、いつでも聞きにおいで」と言うてくれはったんです。
木村 やはり人間国宝になられる方は、度量も広いということですね。
浜村 そのとおり。以来しょっちゅう一緒に呑みに行って、家にも泊めてもらいました。しかし木村さん、関西の落語家は、いまや三百人だそうですよ。
木村 そのうち東京落語を抜くんじゃないですかね。
浜村 ああ、(落語界に)行かんでえかったわ。アハハハ。
女優ソフィア・ローレンが激怒!?
名調子〝浜村節〟が大脱線した日
木村 その後、浜村さんは関西に戻られ、話芸のカリスマになっていかれるわけですが、最初に脚光を浴びられた番組が、ラジオ大阪の『ヒットでヒット バチョンといこう!』ですね。
浜村 よくご存じで……。一九六〇年代後半からラジオの深夜放送が盛んになりましてね。七〇年に始まった『バチョン』は、松竹芸能から正司敏江・玲児、吉本から笑福亭仁鶴、コメディNo.1、米朝事務所から桂小米といった人たち、それに演芸と関係が無いところから僕が参加して、日替わりでパーソナリティを務めました。深夜放送って、一種の解放区ですよ。好きなことをしゃべりまくって、ずいぶん若い人に受けました。同じ頃、やすし・きよしさんに誘われて、僕が吉本の舞台に立っていたのをご存じですか?
木村 えっ、吉本の舞台に出ておられたんですか!?
浜村 うめだ花月も、なんばグランド花月も、京都花月も、全部出ました。漫談で出たら、後に吉本の興業の社長になる中邨秀雄さんが、課長の頃だったか……僕の舞台を観ておられて「きょう、わし、珍しい漫談観たんや」と。「へー、どんな漫談ですか?」と僕。「客がいっぺんも笑わん漫談や」「誰がやってましたか?」「お前やないか!!」。
木村 アハハハ。そんなことがあったとは知りませんでしたね。そして一九七四年にスタートしたのが大阪のMBSラジオ『ありがとう浜村淳です』。四一年間も続いているラジオ番組ですが、これほどの長寿番組って、ニュースや天気予報を除けば、無いんじゃないですか。
浜村 週一ならありますけど、毎朝というのは無いですね。それで毎日放送がギネスブックに申請をしたんですよ。でも、残念ながらアメリカに、九〇歳で『ありがとう』以上に番組を続けている司会者がいるということでした。上には上がいるもんですねぇ。
木村 でも、いまではこうして世間に認知されていらっしゃる浜村さんですが、どちらかというと関西では浜村さんのようなポジションは、評価されにくかったのではないですか?
浜村 おっしゃるとおりで、噺家(はなしか)でも、漫才師でも、漫談家でもない。ジャズ・映画の解説と司会、パーソナリティ、それに七五調で演歌の司会をやっていますが、いったいどういう存在やねん? と言われますね。
木村 その浜村さん独自の話芸は、いったいどこで体得されたんですか。
浜村 東京の渡辺プロにいたとき、隣が東宝演芸場で、しょっちゅう「名人会」をやっていました。落語好きのロック歌手のミッキー・カーチスと二人で、暇さえあれば東宝演芸場に通って、落語を聴きたおしたんです。桂文楽、古今亭志ん生、柳家小さん、三遊亭圓生……どの人も名人中の名人といわれる人ですよ。漫才では「てんやわんや」さんとかね。また、NHKの名物アナウンサー宮田輝や高橋圭三、弁士の徳川夢声さんらのしゃべりをテープレコーダーで繰り返し、繰り返し聴きました。おかげで、いま、役に立っていますよ。
木村 こうしてお話を伺っていると、京都弁でも大阪弁でもないようですね。
浜村 僕のしゃべりの特徴は、文字に書き起こしたら標準語、共通語に近いんです。しかし、しゃべると関西なまりなんですよ。
話は脱線しますが、イタリアを代表する女優ソフィア・ローレンがテレビ番組のゲストでやってきたときのことです。司会の僕は、隣に並んで座っている彼女に「あなたのバストは九八センチだそうですね」とVカットの胸元をのぞき込んだんです。すると彼女が「立ちなさい!」と声を上げた。相手は世界の大スターですから、スタジオ中凍りつきました。僕もピーンと立ち上がりました。すると彼女、「立ったら、もっとよく見えるでしょ」とニコッと笑ったんです。いまだとセクハラ事件にもなる僕の大失態ですが、彼女のウイットに富む、相手を傷つけない受け答えに救われ、感動しました。ユーモアセンスのある語りは、真面目すぎる日本人の苦手とするところですが、そのあたりを見習いたいなと思いましたね。
三日に一度のアラカン、バンツマ……
時代劇スターに彩られた豊穣の少年時代
木村 浜村さんは映画評論家としても有名なんですが、これだけ忙しいのに、いつ映画をご覧になるんですか。この四一年間、『ありがとう浜村淳です』に出演するためには、朝五時半起きでしょう?
浜村 いえ、五時起きで、毎日放送に六時に入ります。二時間かけて準備をして八時から一〇時半までが本番(土曜日は十一時半まで)。映画は寸暇を惜しんで観ています。
木村 いったい年間何本くらいご覧になるんですか。
浜村 本数はDVDも含めると、数え切れないんです。ただね、映画に主演した俳優さんが、しょっちゅう番組のゲストでお見えになりますから、映画を観るのは仕事としての義務でもあるんですよ。
木村 これほどの映画好きになられたきっかけは?
浜村 僕が生まれ育ったのは、京都市北区の鷹峯(たかがみね)という、若狭街道に面したところで、日本的な風景が広がっていましてね。僕が子どもの頃は、時代劇のロケ隊が三日にいっぺんは来ていました。土地の人は、ロケーション撮影のことを、タネ撮りと呼んでいました。
木村 時代劇の黄金期ですね。
浜村 そうです。「きょうも活動写真のタネ撮りに来ているぞー」と言う声を聞くと、大人は仕事がありますからそうそう集まれませんが、われわれ子どもはカバンを放り投げて見に行くんです。嵐寛寿郎が、片岡千恵蔵が、阪東妻三郎が、市川右太衛門が、目の前にいる。こんなことが三日に一回あれば、誰でも映画好きになりますよ。撮影が終わって上映が始まると、あの映画、○○の家が映っているぞとか、××の田んぼが映っているぞとか……そうなると、ますます映画好きになる。体に染みついて、どうしようもないですね。
木村 それにしても、浜村さんの映画評論は、微に入り細に入り、まるで映像が目に見えるような語り口で、誰にも真似ができない名人芸ですよ。
浜村 芸と言われると恥ずかしいんですが、僕ら中学校の頃、やたら野球に詳しいとか、相撲に詳しい子がいたでしょ。選手の出身地から背番号から全部覚えている。それと同じことですよ。まあ、僕の映画評論を聞いて映画館に行った人が「浜村の話ほど、面白くなかった」と苦情を寄越すケースもありますけどね(笑)。
木村 浜村さんの語りが面白すぎるんですよ。宝塚歌劇や歌舞伎についても非常にお詳しいですよね。
浜村 初めて宝塚歌劇を観たのは京都公演なんです。京都に宝塚が来るといって大騒ぎになり、十一歳のとき、親に連れられて観ました。演目は〝永遠の二枚目〟〝宝塚の至宝〟と呼ばれた男役スター、春日野八千代さんの「ピノチオ」。少年ピノチオが飛んだり跳ねたりして、おじいさんも出てきました。で、母親が「あれなあ、みんな女のお人がおやりやすんどすえ」と京都弁で言ったんです。十一歳の少年としては、ものすごいショックを受けて、その瞬間、虜(とりこ)になってしまいました。宝塚は今年一〇一年目ですが、そのうちの七〇年を、僕は観ているわけです。このあいだも、元娘役の八千草薫さんと対談したんですが「文福茶釡の狸、よかったです。源氏物語の八歳の若紫、かわいらしかったです」などと当時の舞台の感想を言うと、八千草さんは「うれしい!」と仰天されていました。
木村 そりゃ、びっくりされますよ。七〇年前の舞台を克明に覚えていらっしゃる記憶力もすごい。
浜村 歌舞伎については、京都の人は師走が近づくと「顔見世を観なんだら、お正月がきいひんのどすえ」と言うて南座に行くでしょ。親に連れられて何べんも行きましたから、これも身体に染み込んでいますね。
ラジオの「話芸一本」を極めるために
目指すは九〇歳・現役パーソナリティ
木村 浮き沈みの激しいこの世界で、約半世紀にわたり第一線に立ち続けていらっしゃる秘訣は何ですか?
浜村 それは木村さん、仕事が地味だからですよ。
木村 といいますと?
浜村 僕が何で『ありがとう浜村淳です』を始めたかというと、ラジオはテレビより下にみられますから、テレビに負けないように面白い番組をつくろうというのが主旨だったんです。テレビは映像があり、華やかでカラフルで楽しい。しかしラジオは「話芸一本」です。テレビでは〝一発屋さん〟ているでしょ。パッと売れて、すぐに忘れられる芸人さんです。ラジオは地味に毎日、ぼそぼそとしゃべっている。だからラジオの一発屋というのは聞きません。
木村 たしかに、ラジオをやれる人は、長続きしますよね。
浜村 そう言っていただけると、ありがたいです。例えば、百貨店が同じ日に、同じ商品をテレビショッピングとラジオショッピングで販売することがあります。どちらが売れるかって、ラジオショッピングの方が売れることも結構あるんですよ。テレビは映像のメディアですから見せたら分かる。ラジオは見せられないのでしつこいほどしゃべって説明する。僕は、ラジオは説得のメディアだと思うんです。売れ行きがいいのは説得効果ですね。
木村 聴いている人に、ちゃんとメッセージが届いているんですね。そういえば番組のリスナーと、よく旅行に行ってらっしゃいますよね。
浜村 一回目のハワイ旅行は五百人も応募があって、飛行機二便で行ったんです。ハワイってこんなにエエとこですよと、あることないことしゃべりまくって、説得して(笑)。
木村 これまでに何カ国ぐらい行かれましたか?
浜村 ほとんど行ってます。行ってないところが、ベルギーとギリシャとポルトガルと南極北極くらいですね。
木村 ここまでくると、浜村さんの話芸を誰かが引き継いでいくことも必要なのではないですか?
浜村 弟子入り志願もありましたが、帰ってもらったんです。落語や漫才なら、受け渡すべきネタや伝統があるのでしょうけど、司会というのはメインに対してサブの存在ですから、メイン次第でどうにでも変わります。人から習うのではなく、自分で試行錯誤していくしかないんです。これは僕一代限りで終わりでしょう。
木村 なるほど。ご自宅でも、こういう滑らかな〝浜村節?が飛び交っているんですか?
浜村 熱が入れば、こういうしゃべりになるでしょうね。
木村 八〇歳でバリバリの現役。それを支える健康法は何ですか?
浜村 このあいだも、東京のコンサートの司会を頼まれましてね。土曜日だったんですが、朝十一時半まで『ありがとう』の放送があって、二〇分で新大阪駅に駆けつけ、新幹線で東京へ。日比谷公会堂で昼と夜の二回の公演の司会を務め、夜、大阪に戻って、翌朝五時起き……。こんな生活がいまだにできるのも、にんにく卵黄のサプリメントと、妻の食事と生活管理のおかげだと思っています。
木村 ご結婚されて、何年になりますか?
浜村 もう、五〇年余りですね。
木村 『ありがとう浜村淳です』は、あと一〇年は続くと聞いていますが。
浜村 はい。皆さんに必要とされる限り、あと一〇年は続けたいと思っています。そのために時代に遅れないように絶えず新聞を読んで、話題を拾っているんです。ありがとう、これからもどうぞよろしく!
木村 こちらこそ。浜村さんはファイブエル世代の星であり、目標です。ギネス認定まで一〇年といわず、一〇〇歳まで続けていただいて、話芸の人間国宝になっていただきたいものです。本日は、ありがとうございました。
対談後記
どこかのコマーシャルではないが、「浜村淳さんの朝は早い」。そんな生活を四一年、月曜から土曜まで務めているというのだから、生半可な知力・気力・体力ではない。のみならず、活躍の範囲がテレビ・映画解説・イベントの司会にまで多岐に亘っているのだから、正に「レジェンド」という呼称がふさわしいのかも。一般的に、テレビが「皆さん」と呼びかけるのに対して、ラジオは「あなた」と呼びかけるメディアであるといわれる。強烈な個性ひしめく関西芸能界のなかで、どちらかといえば薄味なルックスの浜村さんが、今日まで活躍を続けてこられた背景には、聴いている人の心を捉えてはなさない卓越した「語りの力」があったからだと思う。そんな浜村節に心地よく耳を傾けるうち、あっという間に時は過ぎた。「ところで、にんにく卵黄って一体どこで買えばいいんだっけ?」
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