2016年03月16日10時00分

ビジョリーな人たち 志釜利行 時計台観光株式会社 代表取締役





親の教えと妻のアドバイスが私を導いてくれた




志釜利行(しかま としゆき)
1947年、北海道中川郡美深町生まれ。1969年、北海道新聞社入社。同社を退社後、飲食店勤務や経営などを経て、1974年に「味の時計台」第1号店を開店。


国内外合わせて60店舗近く展開しているラーメンチェーン店「味の時計台」。人脈もツテもなしにここまで辿り着いた軌跡を聞く。



大通公園、時計台、赤れんが庁舎…札幌の観光名所

 「味の時計台」は、全国に56店舗展開し、台湾・タイへも進出しているラーメンチェーン店だ。「札幌ラーメン」のブランドを広めるきっかけとなった会社の一つであり、また、40年ほど前に、どんぶりを覆い隠すほどの大きなチャーシューがのった「ジャンボチャーシュー麺」で一世を風靡した歴史を持つ。

 創業者の志釜利行さん曰く、「北海道で30年以上続いていれば、その店はもう老舗」。すすきのに9坪ほどの小さなラーメン屋を開店してから42年、苦難を乗り越えながらなんとかここまで続けてきたと語る。

 「『他のものには手をつけない』という父の教えを守り、ラーメン屋を始めてからは一度たりともラーメン以外の分野に手を広げたことはありません。長く続いているのは、そういう堅実な働き方のおかげだと思っています」

 志釜さんは、1947年、札幌よりも北に位置する美深町で生まれた。小学生のときから両親が営んでいた鉄工所の仕事を手伝うようになり、朝早くから夜遅くまで、ほとんど眠ることなく働き続けた。父親の教えは、後に志釜の経営哲学のもととなった。

 「父は、とても堅い性格でした。父に教え込まれて私も鉄のような働き方をして、自然と忍耐力や根性が身につきましたよ」

 都会で経営を学びたいと思ったのは22歳のときだった。両親をなんとか説得して札幌に出てきたはいいが、ツテもなければ知り合いもいない。東京から長野までとほぼ同じ距離にあたる、200キロメートル以上も故郷から離れた地で、志釜の孤独な生活が始まった。すぐに見つけたのは、北海道新聞社の求人広告だった。200人の受験者のなかからたった2名の採用枠に食い込み、北海道新聞社に入社が決まったのは23歳の時だった。総務部に配属されたが、1年も経たないうちに退職を決めることになる。きっかけは、社員食堂で昼食を食べていたときに上司がもらした『会社を辞めて飲食店でもやった方がいいよな』という、何気ない一言だった。

 「上司は自分自身のことを言っていたんですけど、妙にその言葉が響いてね。その晩、家に帰ってからも、その一言が頭から離れなかった。『確かに食べ物は生きていく上で欠かせないものだし、自分は商売をする方が向いているかも』と考えたんです」

 和食、中華、居酒屋などさまざまな飲食店で数年間修業を積み、26歳で独立。最初に開いたのは居酒屋だった。朝早くから起きて市場へ買い出しに行き、昼は仕込みをして、夜は店の営業をする。思った以上に居酒屋の経営はつらいものだった。ふと向かいのラーメン屋を見ると、規模はほぼ同じなのにオーナーは自分よりもはるかにラクそうに働いている。確かに、ラーメン屋は麺や肉など仕入れる食材が固定されるため、毎朝わざわざ市場に買い出しに行く必要もない。何より、思い起こせば自分は子どもの頃からラーメンが好きだった。

 「こっそりと箪笥から親のお金を持ち出しては、近くの食堂にラーメンを食べに行った記憶が蘇ったんです」

 ラーメン屋で修業を始めると同時に、独自の味を生み出すためにスープの試作を重ねるように。ほどなくして、27歳でススキノ新ラーメン横丁に出店。北海道新聞時代に毎日オフィスから眺めていた札幌市時計台にちなんで、店名は「味の時計台」に。後にチェーン店へと拡大していく記念すべき第1店舗目の始まりだった。

 しかし、すぐに経営が軌道に乗ったわけではなかった。居酒屋を営んでいた頃と同じように、昼も夜も働く生活が3年近く続いた。


一世を風靡した「ジャンボチャーシュー麺」(現在はメニューには無い商品)


看板メニューの「味噌ラーメン」。「北海道の食材を使う」という信念から、茎わかめを盛り付け。甘みのある濃厚な味噌の味わいが人気。

 「24時間常に仕事のことが気になって仕方なくて、とにかく必死で働きました。家に帰る暇もなくて店に泊まり込んでいたのですが、夜はテナントの空調が止まってしまうんです。冬になると寒くて仕方なくて、ダンボールを布団にしていました。過酷な生活に耐えられたのは、親に鍛えられたおかげです」

 そんな志釜さんに、妻はあるアドバイスをした。

 「妻が、小樽で食べた特徴のあるラーメンが印象的だったと言って、私にもそういうインパクトのあるラーメンを作るように勧めてくれたんです。自分で言うのも恥ずかしいですが、私は妙に素直なところがあるので、妻に言われた通り特徴のあるラーメン作りにチャレンジして、麺が隠れるくらいの大きな肉が乗っているラーメンを考えたんですが、しかし、大きな肉が崩れてしまわないように味付けするのが大変だし、切るのも大変。仕込みにも2日かかる。苦労と工夫を重ねて完成するまでに半年くらいかかりました」

 「ジャンボチャーシュー麺」と名付けて商品化すると、それがたちまちテレビ局の人間の目にとまり、全国放送で紹介された。

 「テレビの力は大きい。一気に話題になって、売り上げがめきめき伸びていきました。1977年に2号店を出店してからは、瞬く間に全国展開のラーメンチェーンへと成長した。妻なくしては今の『味の時計台』はなかった。店が増えたおかげでジャンボチャーシューの供給が困難になって泣く泣くメニューから外してしまったのですが、また復活させたい。何といってもこれが私の原点ですから」

 御歳69歳。志釡さんの夢はまだ尽きない。

「夢はアジア制覇。そして、末長い商売を心がけることが私のポリシーです」






木村の視点


市場規模が6千億円で、全国に2万店があるといわれるラーメン業界は、一方で年間新規出店が3500店で、撤退をする店がそれと同数あるといわれるくらい競争の激しい世界でもあります。そんな厳しい世界にあって、創業から42年を迎えるというのはなかなか出来ることではない。成熟したマーケットでの勝ち残りのキーワードは、「○○といえば△△といわれるくらいダントツの一品を持つことだ」といわれるが、志釜さんの場合はそれが、「ジャンボチャーシュー麺」だった。だが、そこに安住していては明日がない。そのため、今も会議の日以外は札幌を離れ、全国でマーケティング行脚を続けているという。我々が訪れた日も、沖縄からのとんぼ返りだったとか。15、6年ぶりにお会いした志釜さん、確かあの頃は、宇崎竜堂さんに似ていたんだけれど。

 

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