2016年05月04日10時00分

ビジョナリーな人たち 田中康久 箱根もてなしの達人




箱根もてなしの達人

地元・箱根に熱い思いをかける、湯本新聞販売所の田中康久さん。町の振興を願って、ボランティアで観光客などに箱根の案内をしています。



田中康久(たなか やすひさ)
1954年、箱根町生まれ。祖父の代から続く湯本新聞販売所での新聞販売を生業としながら、1980年代後半からは箱根の観光振興にも精力を注いでいる。




 旧・東海道に面した温泉街、箱根町。江戸時代から宿場町として栄え、明治時代には国道1号線が敷かれて、人々が集まりやすいように真っ先に整備された。明治11年に開業された富士屋ホテルは、歴史的価値から第二次世界大戦中の爆撃を免れ、戦後まもなく連合国軍の施設に指定されてダグラス・マッカーサーも滞在。常に国内外から注目され続けてきた、由緒正しき温泉街である。

 現代においては、高度成長期からバブル期にかけて、熱海と共に観光全盛期に突入。当時流行した旅番組、旅雑誌では、頻繁に箱根が取り上げられた。箱根の企画が増えてくると、悩むのは雑誌の編集者や、番組制作会社だ。新情報がない。まだ知られていないマニアックな情報が欲しい。そこで活躍したのが、湯本新聞販売所の田中康久さんだった。

 「もとは、箱根に関するクイズ番組に、解答者として出演してほしい、と依頼されたんです。でも『私は全部わかっちゃうから面白くなりませんよ』とお断りした。代わりに問題作成を担当すると、予想以上に好評だったんです。それがきっかけで、『箱根のことは田中に聞け』と人づてに私の名前が広がり、メディアや雑誌に箱根情報を提供するようになったんです」

 いつしか田中さんは、メディアから引っ張りだこに。箱根町内からも行事や観光の企画の相談を受けるようになり、2006年には箱根町観光協会認定の「箱根もてなしの達人」の5人に選ばれた。
 昭和29年、田中さんは旧・湯本町に生まれた。生家は昭和元年に創業された湯本新聞販売所。山々に囲まれた特殊な地形をしているため、湯本新聞販売所の配達区域は非常に広く、また特定の新聞社に限らず、複数の朝刊紙、夕刊紙、スポーツ紙を扱う〝合売〟の形態を取っている。配達件数もさることながら、一人当たりの配達員の移動距離も長い。

 「学生時代は、学校に行く前に300〜400軒ほど配達していました。箱根の山あいに配達するから、1軒1軒の間隔が広い。毎朝バイクで長距離を走っていたことから、気づけばツーリングが趣味になっていました」
 新聞配達の仕事はほとんど休みが取れないが、夕刊のない日曜日、月曜日が休刊日にあたるタイミングを狙って、ツーリングや旅行に出かけた。

 「40半ば頃までは、休みのほとんどを国内旅行にあてました。47都道府県全て行きましたよ。道後温泉までバイクで1泊2日の旅に出たことも。とにかくバイクと旅行が好きで、あちこちまわりましたね」
 趣味の旅行が、「箱根もてなしの達人」に繋がる。


観光客から頼られるだけでなく、旅館や飲食店など、町内の人々からも集客方法の相談を受ける田中さん。町に一歩出ると、あちらこちらから声をかけられます。

 「日帰りや1泊2日の旅がほとんど。バイクでの移動だから、観光できる時間が限られていたんです。初めから目星をつけていいとこ取りをしたかったのだけど、当時は観光情報誌やマップがほとんどなかった。駅に置かれたツアーのパンフレットから情報を集めました」

 観光客が事前に情報を得られる、便利な手段はないものか。自身が苦労した経験から、田中さんは自ら箱根の観光情報を発信するようになる。

 「新聞配達の仕事をしているおかげで、日常的に箱根中をまわっています。色々な人と話をするし、ローカルな情報がダイレクトに入ってくる。自ずと箱根の事情通になりますから、この知識を箱根の観光に役立てたいと思ったのがきっかけでした」

 1980年代前半に、富士通のFM–7が発売されると、田中さんはいち早くパソコンを購入。メカにはほとんど詳しくなかったが、兎にも角にもインターネットを繋ぎ、掲示板を開設した。観光客からの質問に答える形で、箱根の情報を発信。書き込みは、1万件を超えた。

 「2時間以内に回答することを心がけていましたから、気づけばパソコンの前にいる時間が長くなった。過去に同じ質問をされていたとしても、必ず一人ひとりに返信して、箱根が人を歓迎していること、もてなしの心があることを伝えたかったんです」

 地道な活動が評判となり、役所をはじめ町中の人々が、テレビや雑誌から取材を受けるたびに田中さんを紹介するように。田中さんは町内外から企画や観光の相談を受ける、有名人となった。
 折しも、バブルの崩壊、景気の悪化と共に、箱根の観光収入は低減の一途を辿るように。

人口も、1980年の約2万人から現在は約1万1600人へと落ち込み、財政も悪化したままだ。昨年には箱根山の火山活動の影響で、町全体が大打撃を受けた。だが、黙っていても人が集まってくる町だったために、箱根には自ら観光情報を発信するノウハウがほとんどない。自分が先頭に立って発信していかなくては箱根が廃れてしまうという危機感が、今も田中さんを掻き立てている。

 田中さんはあくまでも、肩書きは新聞販売所の経営者。観光関連の活動はボランティアの立場を貫く。
 「箱根は古くから続く町。今でも、長い歴史の中で培ってきた人と人との信頼関係で成り立っていて、箱根のそういう部分が私は大好きなんです。町内の人からの相談でお金をとりたくないし、町外の人にはどんどん箱根を知ってもらって町を次の時代に残していきたいんです」





木村の視点


 ロケ地を決めたのはいいが、窓口になっていただけるキーマン探しに苦労して、田中さんにたどり着いた。湯本新聞販売所という名前にひかれ、「新聞を販売されているなら、地域情報に精通されているだろう」と連絡を取ったのだが、正解だった。名刺に「箱根もてなしの達人」ばかりでなく、「街角レポーター」「箱根湯本観光協会」「箱根大名行列保存会」「箱根ほたる愛護会」とあるように、文字通り町のコンシェルジュとでも呼ぶべき人であったのだ。首都圏からの至近性もあって、年間約2000万人が訪れていた観光客(京都市が5000万人であることに比べるとすごいのだが)も、昨年は大涌谷周辺の噴火警戒レベル引き上げなどもあって、やや減少したという。約8割が観光に依存する町にとっては大きな問題である。今こそ「待ち」の姿勢を改め「攻め」に転じなくてはならない。田中さんの活動が個人レベルに終わるのではなく、町の大きなうねりになれば、再び日が差してくるように思う。町興しには「固定概念にとらわれないワカ者・枠にとらわれないバカ者・従来のやり方を踏襲しないヨソ者」が要るといわれるが、一番必要とされるのは「地域を愛する地元の人」だと思うからだ。田中さん、ハーレーで走り過ぎて転ばないように!

 

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