2016年07月06日10時00分
リオで、世界に示す!わが日本柔道の真価 井上康生 柔道家
井上康生 柔道家
リオで、世界に示す!わが日本柔道の真価
シドニー五輪の一番高い表彰台に立った男の手には母の遺影が高く掲げられていた。
思えば、金メダル獲りのレースがスタートしたのは、記憶もおぼろな五歳のときである。
小柄な柔道家の父が、大きな男を内股で次々に投げ飛ばす。
その一本勝ちの美しさが、男の脳裏に焼きついている。
「柔道」と「JUDO」。国際化の流れの中で苦闘しながら、その男が出した結論とは?
リオ五輪の戦いで、詳らかにされるはずだ。
井上 康生(いのうえ・こうせい)
1978年5月15日、宮崎県生まれ。柔道家(六段)、柔道全日本男子代表監督。柔道家の父にあこがれ、5歳で柔道を始める。東海大学付属相模高等学校を経て東海大学体育学部武道学科卒業、同大学院博士課程コミュニケーション学専攻満期退学。一本を取りにいく攻撃柔道が持ち味で、1999年、バーミンガム世界柔道選手権大会優勝、2000年、シドニー五輪で金メダル、2001年、全日本選手権で優勝し、3冠王者に輝く。その後、世界選手権3連覇、全日本選手権3連覇を達成。2004年、アテネ五輪出場(9位)。2008年、5月現役引退。同年12月、JOC(日本オリンピック委員会)のスポーツ指導者海外研修制度により、2年間スコットランドに留学し欧州柔道を研究、指導者としてコーチ学を学ぶ。2011年、帰国し、東海大学体育学部で教鞭を執る(現在、准教授)。2012年11月、柔道全日本男子代表監督に就任、男子柔道再建に取り組む。
木村:先日、BSのトーク番組に出演されている井上さんを拝見しました。現役時代の井上さんは、とても寡黙な方という印象でしたから、快活にお話しされているのが、意外な感じがしました。
井上:私は、けっこう話をするのは好きなんですよ。現役のときは勝負について多くを語らずということがありますし、技術的なことにせよ、精神的なことにせよ、すべてをさらけ出すことは勝負にとってマイナスになるという危機感もあって、あえて、あまり話さないようにしていたんです。
木村:なるほど、勝負師とはそういうものなんですね。今日、初めてお目にかかって、もうひとつ意外に思ったのは、井上さんと言えば一〇〇キロ級で戦っておられたので、もっと大きな方だと思っていたのですが、想像していたよりもスマートですよね。以前、この『ファイブエル』にご登場いただいたアテネ五輪柔道女子七八キロ超級金メダリストの塚田真希さんのほうが、ずっと大きく感じました(笑)。
井上:あははは。よく言われるんですよ。「テレビで見るより、ちっちゃいね」と。でも、いまも一八三センチ、九八キロあるんですよ。
木村:鍛え上げた筋肉だからそう見えるんでしょうね。ところで、井上さんが柔道を始められたのはお幾つの頃でしたか。
井上:五歳のときです。父が柔道家で、父の姿にあこがれて、「ぜひ、やりたい」と自分から言ったらしいんです。
木村:幼い頃から体は大きかったんですか。
井上:上背はありましたね。母が大柄で、バレーや水泳をやっていて、身長一六五センチくらい。骨格もがっちりしていました。母の父、つまり祖父も非常に大柄でしたから、恐らく母方のDNAを受け継いだんでしょうね。父は一七〇センチ、七五キロで柔道家としては小柄なほうなのに、大男を次々に投げ飛ばすのがカッコよくて、五歳にして、我が人生が決まってしまいました(笑)。
木村:五歳で、お父さまに師事されたということですか。
井上:いえ、父は警察官で、警察道場で練習していたんです。私が五歳のある日、父に、兄たちと一緒に道場に連れていかれました。兄たちは剣道に興味を持ったんですが、私は柔道に夢中になりました。
木村:で、小学四年で県大会で優勝、すごいですよね!
井上:地方の大会は、予選や地区大会もなく、オープン参加で県大会に出場できるんです。柔道を始めて八カ月後に県大会の幼稚園の部で優勝して、勝つことの喜びを覚えました。地方紙に、金メダルをもらって照れくさそうにしている写真が載っています。その頃の自分は柔道が非常に好きな子どもだったと聞きますし、私は小学校低学年ぐらいからの記憶しかないんですが、非常に楽しく柔道をやっていたように思います。
木村:でも、五歳のスタートから二二歳でオリンピック金メダリストになられるまでの一七年間、あるいはスタートから引退までの二五年間は恐らく、好きとか楽しいといったレベルを、はるかに超えるご苦労がおありだったんじゃないですか?
井上:そうですね、はじめは警察道場に週二回通い、大人に遊んでもらうような感じで楽しくやっていたんです。でも、そのうち、ちゃんとした技を覚えたい、強くなりたい、勝ちたいと、子ども心に強く思うようになり、自分から進んで父が師範を務める「静充館」という練習のキツさで有名な、地元の名門道場に通うようになりました。三人兄弟の末っ子で甘えん坊だった私が柔道漬けの日々を送るのを見て、ようやく父も本気で指導してくれるようになったんです。
木村:その頃から、オリンピックに出ようと思っていらっしゃったんですか?
井上:もちろん! 父と世界を目指すようになって、とくに厳しく指導されたのが「礼儀」でした。少しでも傲慢な態度を見せると、人前であろうと構わず、激しく叱責されて、ビンタが飛んできました。そしていつも言われたのが「ただ勝つだけの柔道ではなく、人に感動を与える柔道を身につけなさい」「攻撃柔道を、一本を取りにいく柔道を目指しなさい」「技の美を追求しなさい」ということです。こういった父の指導が、その後の私の柔道の基礎をつくったのだと思います。
シドニー五輪・柔道男子100キロ級決勝。ニコラス・ギル選手(右、カナダ)を内股の一本勝ちで破って優勝を決め、万歳する井上選手。(オーストラリア・シドニー)
写真提供:時事
母への思い、父への思いが、
シドニー・オリンピックへの道を拓く
木村:そんなお父さまのご指導もあって、小学校、中学校で全国制覇を果たすなど、井上さんの名前は全国に知られるようになりました。高校進学を前に、たくさんのスカウトの話があったと聞きますが、九州から遠く離れた神奈川県の東海大学付属相模高等学校に進まれた理由は何だったんですか? 地元にってほしいという声もあったでしょう。
井上:ありました。私も当初は迷っていたんですが、自分自身が目標にしていたのが「オリンピック」であり「世界」であり、ロス五輪金メダリストで前人未到の全日本選手権九連覇を達成された山下泰裕先生にあこがれてもいましたから、先生の卒業校に行けば山下先生のご指導も受けられるというので決めました。また、母が「強くなりたいなら中央に行きなさい」と強く勧めてくれたことも大きかったですね。
木村:インターハイの県予選決勝で負けたと時に、会場で応援されていたお母さまに賞状を破り捨てられたというのは本当ですか?
井上:その通りです。びっくりしますよね。高校二年生のときはオール一本勝ちで優勝しましたが、三年生のときは、県予選の決勝で判定負け。母の中には、親のひいき目で判定に納得のいかない部分もあったんでしょう。負けることによって、私に下を向かせてはいけない、必ず、大成するからという気持ちもあったんでしょう。「あなたに二位は似合わない! 悔しかったらもう一度練習し直してチャンピオンになりなさい」と叫んで、私から賞状を取り上げ、破り捨てたんです。
木村:そんな気丈なお母さまが、シドニー五輪の前年にくも膜下出血でお亡くなりになったんですね。シドニーのオール一本勝ちでの優勝は圧巻でしたが、その表彰式で、井上さんはお母さまの遺影を高々と掲げられました。いまだに語り草になっていますが、そこまでされたお母さまへの深い思いとはどのようなものだったんでしょうか?
井上:母は、私の幼少期から、誰よりも私が日本一、世界一になると信じて、支えになってくれました。私が世界選手権の日本代表に初めて選ばれた矢先に亡くなってしまうんですけど、実はその頃、私は大スランプに陥っていたんです。出る試合、出る試合、負け続けるという日々で、母も心配していたんですけど「あなただったら大丈夫!必ずこの壁は乗り越えられる。日々、『初心』という言葉を忘れずに頑張りなさい」と言い続けてくれました。それでも不安定になる私に、母は身をもって、私に大きなエネルギーを与えてくれたんじゃないかなと思いますね。あの母の死がなかったら、その年の世界選手権、翌年のシドニー・オリンピック、翌々年の全日本選手権での優勝は、なかったかもしれないですね。
木村:世界選手権、オリンピック、全日本選手権は柔道における「三大タイトル」ですが、井上さんは二三歳にして、その三冠王者になられました。それはお母さまのおかげだと?
井上:そうとしか思えないんです。母の死によって、私は柔道を始めた頃の、素直に勝ちたい気持ち、柔道が好きでたまらない気持ちを取り戻して、初心に帰ることができました。でも、母は三大タイトルを何ひとつとして見ることないまま亡くなったんです。そんな母を、全世界の人が注目するオリンピックという舞台で知ってほしくて、あのパフォーマンスが生まれました。
われわれスポーツをやっている者にとって、何がいちばんうれしいかというと、自分自身が掲げた目標や夢を達成できることです。日々の練習の中では失敗の繰り返しなんですが、その掲げたものに対して努力を積み重ね、ときには挫折しながら、たった一日の成功をつかみ取るために頑張るんです。
木村:そして成功の翌日から、また次の目標に向かって努力を重ねられるというわけですね。シドニーの次のアテネ五輪では、井上さんは日本選手団の主将を務められました。試合では、まさかの四回戦での敗退。にもかかわらず井上さんは主将として最後まで、声を枯らしてチームメイトを応援しておられ、感動したのを憶えています。どうして、そういう行動を取ることができたんでしょうか? 普通なら落ち込んで他人の試合どころじゃないでしょうに!
井上:人それぞれの仕事に対する価値観があると思いますが、主将の仕事って何かと考えたとき、まず、第一に日本代表として試合に勝って、みんなに勇気を与えること。ただし、試合で勝つだけではなく、チームをまとめたり、応援したりすることも重要だと思いましたから、そんな特別なことではないと思っています。
木村:いえいえ、なかなかできないことですよ。それこそキャプテンシーの最たるものだと思いましたよ。
シドニー五輪・柔道男子100キロ級表彰式。母・かず子さんの遺影を掲げ表彰台の上で手を振る金メダルの井上康生選手。
写真提供:時事
「柔道」と「JUDO」のはざまで、
苦悶の末に見いだしたものとは?
木村:五輪金メダリスト、世界選手権三連覇、全日本選手権三連覇という輝かしい記録を残された最強の男・井上さんは、一本勝ちの攻撃柔道が代名詞でした。でもその後、だんだん勝てなくなります。その辺りは、どのように乗り越えようとされたのですか。
井上:アテネ五輪以降、世界の柔道の流れは大きく変わりました。つまり一本勝ちを重視する日本柔道にとって、不利なルール改正がおこなわれ、獲得できたメダルの数も減っていきます。いわゆる漢字の「柔道」は、嘉納治五郎先生が明治時代に創始された礼を重んじる柔道であり、ローマ字の「JUDO」は、世界中の国ごとにある格闘技をルーツに創られた、格闘技の複合体なんですね。いま、われわれ漢字の柔道VS勝つためのJUDOの対決の構図になっているんじゃないかと私自身は捉えていて、だからこそ、世界中の格闘技の勉強をして対策は入念におこなってきました。近年はルールも、国際柔道連盟(IJF)が掲げた方針は、「組み合って投げ合って勝負を決しましょう」と、いい方向に変化していると思います。シンプルに技で決する、それが理想ですが、ポイントを重ねて勝ちたいという海外勢も多く、複雑化していますね。
木村:そして井上さんは最後まで、一本を取る攻撃柔道を貫いて、二〇〇八年五月に引退をされました。
井上:私も、いろんな努力をしたんですが実力においても、体力的なもの、技術的なもの、年齢的なものも含め、力がなかったと。それしかないかなと思っています。しかし、アテネで敗れてから引退までの四年間は、私にとって大変勉強になった時間でした。いま指導者になっても、そのときの経験が力になっているのは間違いありません。あのときがあってこそ、いまがあると思っています。
木村:日本柔道男子が、史上初の金メダルゼロに終わったロンドン五輪の後、代表監督を篠原信一さんから受け継がれました。史上最年少監督として日本柔道の再建を託されたわけですが、そのときはどんな思いで引き受けられたんですか?
井上:打診を受けたとき「私でいいのか」というのが正直な気持ちでした。指導者としての経験も浅いですし、まだ能力も足りません。そんな私に果たしてチームの再建ができるのかという不安や、迷いはありました。でも、それ以上に、選手が死に物狂いで前に進んでいる姿をコーチとして見てきて「このチームなら必ずリオで戦って、『日本柔道ここにあり』ということを示していける」という手ごたえも感じていました。ですから、たとえ自分自身の能力が低くても、いろんな方々のご協力をいただきながら、日本柔道界全体がスクラムを組んで戦っていけば、この壁はきっと乗り越えられるんじゃないかという気持ちで、お引き受けしたんです。自分をここまで育ててもらった柔道に恩返しがしたいという気持ちもありましたね。
木村:リオへ向けて、まず、どういった改革から着手されたんですか。
井上:選手たちは常にトップを目指していますが、どこかで「日本の柔道だから、日本人だから、われわれはすべて正しい」という意識があったように思います。私は、それは違う、「われわれは海外勢に負けたんだ。だからこそ、柔軟に変えなきゃいけないところは、変えていこうよ」と呼びかけたんです。具体的には練習内容の見直しです。従来の日本的スタイルの練習には、伝統的に質より量という概念が支配的だったんですね。練習は「ゼーゼーハーハー」と苦しいものだと。そんななか、私は二〇〇八年暮れから二年間の英国留学で、外国人選手がなぜ強いのかを思い知らされたんです。彼らは非常に効率的な、つまり量より質を重視した練習をしているんです。そこで、われわれもこの三年あまり、とにかく質を高めていく練習に切り替えていったところは大きかったように思いますね。
木村:体力面はどうですか。外国人選手のパワーには驚かされますが?
井上:体力面において日本人選手が海外の選手を上回るのはなかなか難しい部分があります。それを凌駕するのは難しいですが、何とか拮抗するところまでは持っていけるのではないかと思い、各分野の専門家の力もお借りして、トレーニングメニュー、食事、睡眠、休養など、すべての面で改革をしました。選手が出場する大会も戦略的に変更したり、選手たちが年間半分の活動は所属チームでやっている点に注目して、全日本と所属チーム双方で力を合わせて選手をサポートできるように、連携システムを整備するとか、やれることはすべて取り組んできました。
リオ五輪では「金メダル七個!」
全日本監督としての決意と誓い
木村:なるほど、そういった大改革が実って、昨年のカザフスタンの世界柔道選手権大会で、男子は個人で金メダル三、銀メダル二、銅メダル二、さらに初めての団体優勝と、〝柔道王国復活〟を強く印象づける成績を収めることができたわけですね。リオへの期待がますます膨らんできますが、代表監督として井上さんは「七階級すべて金を目標」にしているとおっしゃっていますね。
井上:あくまでも選手たちが目標にしているのは金メダルです。目標は?と聞けば、皆がその言葉を言います。それを、「お前は銅でいい、銀でいい」というのもおかしいですし、何個でいいというのもおかしい。監督である以上、選手たちの言葉、目標を信じること、そしてそれに向けてともに戦っていくことが大事だと思っています。それに目標・夢というのは、設定したところより上には届かない気がするんです。ですから選手たちには、「これは究極の目標かもしれない。歴史的に実現したことはないんだから。だけど、おれはあくまでも究極のもの、つまり全階級金メダルを目指していく。みんな信じろ、覚悟を決めてやれ」という話はしています。課題だった重量級にも有望な選手が出てきましたから、大いに期待してください!
木村:わくわくしますね。リオ五輪の柔道は八月六日から。目標が実現するように応援します。話は変わりますが、井上さんには亜希夫人との間に四人のお子さんがいらっしゃって、なんと三人目と四人目は双子さんなんですって?
井上:適切な言葉かどうかわかりませんが、想定外でした(笑)。先ほどもお話ししましたように、全日本で掲げている効率的な練習。非効率とは精神性なんですね。試合においては予期せぬことがたくさんあるので、最後は例えば、息が上がって動けない、苦しい……そこで「もう一手」と立ち上がる、精神性による非効率的な練習も大事です。一方では科学的な練習方法も取り入れています。例えば外国人選手の分析でも、単なる感想ではなく、情報を数値化しデータベース化し、対処法、練習方法などを徹底的に研究し実践しています。何が言いたいかといいますと、妻の直系にも私の直系にも、過去の〝データベース〟に双子はいないことから、これは正に「想定外」でした。妻から双子と聞いて驚きましたが、いまは、とにかくかわいいです。
木村:素敵なご家庭の様子が目に見えるようです(笑)。唯一の男の子さんは柔道をなさるんですか。
井上:五歳で、柔道は楽しく、のびのびやっています。
木村:環境にも恵まれていますよね。
井上:ただ甘やかすのではなく、その子に、どういう子になってもらいたいかをもとに、適切な環境を与えていってあげることが重要だと思います。
木村:いいお父さまであり、いい指導者になられましたね。
井上:外に出ることが多いものですから、妻には迷惑ばかりかけていますけどね。
木村:リオ五輪は日本柔道の真価が問われる大会です。健康に留意され、選手の皆さんが実力を存分に発揮されることを祈っています。本日はお忙しい中、貴重なお話をありがとうございました。
対談後記
稀代の柔道家・井上康生さんにお会いするとあって、いささか緊張感を持って臨んだ私を、優しい眼差しで研究室に迎えて頂いた。作家・レイモンド・チャンドラーは「タフでなければ生きていけない。優しくなければ生きている資格がない」との言葉を残しているが、井上さんは強い人間であるからこそ、本当の優しさを身につけられたのだと思う。最愛の母に次いで、父が倒れた後、献身的に自分を支えてくれていた兄までを喪った時も、試合は待ってはくれなかった。普通なら、「この世に神はいないのか!」と恨み言の一つでも言いたかったところだと思う。だが、そんな過酷な試練の中でも、彼は果敢に試合に臨んで行った。強い人間は自分の運命を嘆かないというが、井上さんは柔道だけではなく、心の方もまた強い人間であったのだ。「わが柔道人生に悔いなし」という言葉を残して選手生活を卒業された井上さん、今度は指導者として、「柔道ニッポン」の再建に取り組むことになった。でも大丈夫! この人なら「不撓不屈」、いや(撓という字は「たわむ」ということなので、ここは立ち技を得意とした柔道家らしく)「不倒﹅ 不屈」の精神で、必ずや成し遂げてくれることだろう。
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- 5L編集部
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