2014年12月02日18時55分
■捨て身でぶつかれば、きっと道は開ける。 三國清三(オテル・ドゥ・ミクニ代表)
母親はこんな言葉を送ったそうだ。
「お金がなくても学歴がなくても志は平等だ」
畑仕事で一日中泥まみれの母親の
精一杯のはなむけだったのだろう――。
それから少年は「平等な志」を存分に発揮し、
人が嫌がる鍋磨きに夢中になり、
洗い場を突破口に、世界に飛び出した。
木村政雄編集長スペシャルインタビュー
三國清三
オテル・ドゥ・ミクニ代表
木村☆このたびは、レストラン「オテル・ドゥ・ミクニ」開店三〇周年と還暦、フランソワ・ラブレー大学から名誉博士号授与という三つの快挙を祝って、盛大なパーティーが開かれましたね。おめでとうございます。三國さんの資料を拝見して感じたのは、困難な局面を切り開いていく、並外れた「突破力」ですね。
三國☆僕が生まれた北海道は競走馬の聖地で、ディープインパクトとか、いまも日高の牧場にいて、会いに行ったりするんですよ。だけど北海道には、もうひとつ「ばんば(輓馬)」ってあるのをご存じですか。
木村☆そりを引く、ばんえい競馬ですか?
三國☆それです。北海道では「ばんば」って呼ぶんです。サラブレッドとは違い、太くて短足の農耕馬が人を乗せたそりを引っ張って競争しますが、あれ、すごく重いんですよ。だから坂を登るとき、馬はヒーヒー鳴くんです。僕はサラブレッドではなく、「ばんば」の馬。増毛の生まれで、幼い頃から厳しい境遇にいたので、何が何でも壁を乗り越えてやるという「突破力」は、並外れているかもしれません(笑)。
木村☆増毛町といえば、明治から昭和初期まで、ニシン漁で有名でした。ニシン御殿とかあるんでしょ?
三國☆でも、僕が生まれた頃にはニシンがいなくなって寂れ、僕とクラスメートのT君の二人は究極の貧乏でした。僕の弁当はご飯だけ。七人兄弟で、兄二人は中卒後に大工の住み込みで働き、姉二人は出稼ぎ。僕も当然高校には行けない。でも、どうしても学校に行きたかった。担任の先生に相談すると、札幌の米屋で住み込みで働けば、食わせてくれて、夜間の調理師学校に行かせてくれると言われ、T君を誘って丁稚奉公に行ったんです。
木村☆じゃあ、料理人を目指して調理師学校へ入られたんじゃなく、学校であればどこでも良かったんですか?
三國☆まあ、そんなところです。だけど、米屋の三人姉妹の長女が栄養士で、毎晩いろんな料理を作ってくれるんです。増毛では魚と芋や野菜しか食べたことがなかったのに、娘さんが作ってくれるのはマカロニグラタンとかポークソテー。そんなある日、楕円形のかたまりに、黒いどろどろの液体がかかった料理が出た。悪ガキで何でも口に入れていた僕は、母に「黒いものだけは絶対に食うな、死ぬぞ」と言われて育ったので、不景気で口減らしに毒を盛られたんじゃないかとびっくり(笑)。
木村☆あははは。
三國☆でも、みんな、おいしそうに食べているし、僕も恐る恐る箸でつついたら中から肉汁がワーッと溢れた。液体をなめると甘酸っぱい。初めての経験でした。お姉さんに「これ、なんていう料理だべ?」と聞くと「ハンバーグ」。その瞬間に、僕はハンバーグを作る料理人になると決心したんです。
木村☆なるほど。あの当時、洋食は都会でもまだ珍しい時代でしたからね。
三國☆ましてや陸の孤島の増毛では、料理に和・洋・中があることすら知らなかった。ハンバーグを夢中で食べていると、お姉さんが言うんです。「私のハンバーグより、札幌グランドホテルのハンバーグの方が何十倍もおいしいわよ」と。
木村☆札幌グランドホテルって北の迎賓館と言われた、北海道随一の由緒あるホテルじゃないですか。
三國☆はい、そのとき、札幌グランドホテルでハンバーグを作る人になろうと思ったんですね。するとお姉さんが「そのホテルは中卒は入れないの。キヨミちゃんは町の洋食屋に入りなさい」。カチンと来て、心の中で、「絶対、札幌グランドホテルに入ってやる……」。
帝国ホテルで味わった初めての挫折
「くそ!」という気持ちが湧きあがった
木村☆学歴の壁を、どうやって打ち破るつもりだったんですか?
三國☆あてなんてありません。悶々としているうちに調理師学校の卒業の日が近づいてきた。卒業記念のテーブルマナー教室が札幌グランドホテルであると聞いて「これだ!」と。当日、厨房の見学のとき、五四人のクラスメートのいちばん後ろに回って厨房の隅に隠れました。そしてスタッフの様子から後ろ向きに座っている大柄な人が責任者だと判断し、声を掛けたんです。
木村☆一六歳といえば、まだ子どもですよ。そんな子に声を掛けられて、さぞかし相手もびっくりされたでしょうね。
三國☆「お前、どこから来たんだ!?」。僕は「増毛だ」と答え、懇願しました。「自分は中卒で、ここに就職できないのは知っているが、どぶ掃除でも何でもするから、ここで使ってほしい」と。その方は青木さんという料理課長だったんですが、ちょっと考えて「地下の従業員食堂の飯炊きのおばちゃんの手伝いなら」と言ってくれ、翌日から働くことになりました。
木村☆なるほど、ガッツがありますねぇ。
三國☆僕には帰るところはないですから、必死ですよ。従業員食堂の飯炊きは夕方で仕事が終わります。ヒマなので青木さんに頼んで、宴会場の皿洗いを、一手に引き受けました。すると夜一〇時頃には洗い物は全部片付いているから、先輩たちも喜んで僕をかわいがってくれ、半年たった頃、特例で正社員にしてもらえました。社員寮があったんですが、ほとんど帰らないで、ホテルの厨房に残って毎晩、オムレツやステーキなど料理の練習をしました。
木村☆勝手に食材を使って大丈夫なんですか?
三國☆いまでは考えられないことですが、当時は在庫管理とかほとんどしてなくて、じゃんじゃん練習しました(笑)。手に職の仕事って、速くて、きれいで、すばらしければ、年齢・学歴は関係ない。で、「きみ、オムレツできる?」「はい!」。そしてパパッと見事にやって見せる。もし、そのとき「できません」と拒否していたらチャンスは逃げていく。そうやって、一八歳で料理長補佐としてステーキワゴンを任されていました。
木村☆すごい! でも、それだけ札幌グランドホテルで認められていたのにどうして東京に出ようと思われたんですか?
三國☆生意気盛りですからね。あるとき怖い先輩に呼ばれて「お前、札幌グランドホテルでちょっとできるからといっていい気になるな。東京には日本一の帝国ホテルがあって、そこには神様と呼ばれる村上信夫料理長がいる」と。僕は神様という言葉に反応しました。貧乏暮らしでも親を恨んだことはありませんが、神様には恨みがあった。何でこんなに不平等なのかと。とにかく神様に会いたいと思い、村上料理長と懇意だという総料理長に紹介状を書いてもらい、初めて津軽海峡を渡りました。
木村☆戦後の日本にフランス料理を広めた超有名人のムッシュ村上(故人)ですね。どんな方でしたか?
三國☆穏やかな印象で「オイルショックで帝国ホテルも希望退職者を募っている。だから、すぐに正社員は無理だが、アルバイトで働いて欠員がでたら正社員になる順番制があるのでどうか」とおっしゃったんです。札幌グランドホテルでは料理人が五〇人でしたが、帝国ホテルでは六〇〇人。その洗い場が僕の仕事場になりました。
木村☆でも、札幌グランドホテルの料理長補佐にまでなったのに、また洗い場に戻って、悔しくはなかったんですか。
三國☆まあ、何とかなるだろうと。父が漁業、母が農業で朝から晩まで働くのを見て育った僕は、人が嫌がる仕事も、全然嫌じゃないんです。ところが一年たってもアルバイトのまま。そのうち正社員の順番待ちの制度が廃止になり、初めて「挫折」を味わいました。どんなにがんばっても、ダメなものはダメなんだと……。
木村☆後悔もあったんじゃないですか?「あのまま札幌に残っていれば良かったのに」なんて。
三國☆札幌グランドホテルを退職するとき、上司や先輩から、ぎりぎりまで引き止められたんですよ。「内地(本州)は鬼ばっかりで、食われてしまうぞ」「田舎者が東京で成功するわけがない」。それを押し切って上京したので、もう帰るわけにもいかない。悩んだ末に八月一〇日の二〇歳の誕生日に「一二月いっぱい働いて、北海道にこっそり帰る」と決めました。そのとき「くそ!」という気持ちが腹の底から湧きあがったんですよ。二年間アルバイトだけど、日本一のホテルの洗い場を担当した者として、ホテルの鍋を全部、自分の手でピカピカに磨いて去る、そう誓いました。それから毎晩、自分の仕事が終わったら一八あるレストランをすべて回って、鍋を磨かせてもらったんです。
覚悟と別れの「鍋磨き」が切り開いた
トップシェフへのサクセスストーリー
木村☆そして、村上さんから、運命の呼び出しがあったんですね。
三國☆一〇月ぐらいでしたね。どうせ解雇されるんだろうと覚悟を決めて、料理長室に行きました。すると村上料理長は「(帝国ホテルの)犬丸社長から、六〇〇名の料理人の中で、いちばん腕のいい者を、ジュネーブの日本大使館のコック長に推薦してくれと言われ、きみを推薦しておいたからね!」とおっしゃった。驚きました。
木村☆三人のうちの一人ならまだしも、六〇〇人から選ばれたのは大抜擢ですよ。鍋を洗う三國さんの、料理人としての腕を見抜かれた村上さんの慧眼にも感服しますね。
三國☆村上料理長は職人気質ですから面と向かっては何もおっしゃいませんでしたが、後年、著書の中で「三國の(食材への)塩フリを見て、素質を確信した」と書いてくださっていました。当時料理長は取材に応じて厨房でよく料理を作っていたんです。僕は勝手に手伝っていたんですが、どこかで僕が塩をふっている様子を見ておられたんですね。俗に「塩ふり三年」といって素材に合わせて塩をふるのは重要で、相当の腕がないとダメなんですね。だから実際に料理を作らなくても十分腕はわかるとおっしゃったそうです。実は村上料理長もベルギー大使館のコック長を経て、帝国ホテルに戻られたんです。
木村☆札幌グランドホテルから帝国ホテル、そしてまたスイスという次のステージが開かれたわけですね。
三國☆ジュネーブに着いた日に、大使から「近々アメリカ大使を招いて晩餐会をする」と言われました。二年間、アルバイトの鍋洗いで、フルコースなんて作ったことがない。大使に三日間お暇をもらって策を練りました。通訳に「アメリカ大使ご夫妻が普段使っているレストランを調べて、すぐに研修を申し込んでくれ」と頼み、研修を受けました。それを三日三晩で丸覚えして、コースをそのままお出ししたんです。すると大使が厨房に来て「アメリカ大使夫妻に大変喜んでもらえた。この調子でやってくれ」とお誉めの言葉をいただいたんです。他の国の大使も、日本からのVIPも以降はそうやって有名レストランやホテルで研修を受けて、乗り切ったんです。
木村☆なるほど、二〇歳にしてその気転の利かせ方は見事と言うしかないですね。
三國☆でも、しばらくすると何か違うぞと、悶々とするようになりました。
木村☆それは、どういうことですか?
三國☆二〇歳の僕にそんなに簡単にフランス料理の真髄が会得できるはずがない、何か変だぞと……。そんなとき通訳から、ローザンヌにすごい店があると聞いて、休みの日に行ってみました。そして会った瞬間にこの人だと閃いたんです。ミック・ジャガーみたいな人で、はじめは「帰れ」と追い返されたんですが、店の前で粘っていると、着飾った客が来る。「店の前にいられると困る」と言って、厨房に押し込まれたんです。するとそこには鍋や皿の洗い物がいっぱい。迷うことなくワーッと洗いました。
木村☆どうも「洗い場」があると、うまく事が運びますねぇ。
三國☆はい。客が帰った後、その人、つまり天才・ジラルデが「お前、どうしたいんだ?」と聞く。僕は「日本大使館のコックで、毎週休みの日にここに来たい」「じゃあ、好きにしろ」。こうして毎週日曜日、三年八カ月、通い続けました。
木村☆ジラルデさんの店は予約を取るのが、スイス銀行の金庫を破るより難しいと言われるくらい格調ある店なのに、三國さんは、どうして、うまく入り込めたんでしょうか?
三國☆やはり洗い場ですね。最初に木村さんがおっしゃった突破力ですが、僕の場合、突破力を発揮する突破口は、いつも洗い場なんです。例えば東大受験を突破口にすると難しいでしょうけど、洗い場は簡単です。みんなやりたくない、嫌がる仕事ですから。
木村☆言葉の方はどうなさったんですか?
三國☆フランス語は、けっこう難しいんです。卵一個は「アンヌフ」ですが、複数の卵は「デズゥ」。で、どうやって覚えたかというと、やはり洗い場で、「キヨミ、冷蔵庫の何々を持ってこい」と言われて、よく分からないけど勘を働かせて持っていく。怒られれば違うと気づくし、当たればそういう意味かと。これを繰り返しました。
木村☆簡単におっしゃいますが、フランス語を修得するのは大変だったと思いますよ。でも、こうして実際に、世界のトップシェフの下で修業され、帰国されたんですよね。
三國☆僕は五人の神様と言っているんですが、最初に出会ったのが、いまお話したジラルデさん(店名オテル・ドゥ・ヴィル、のちにレストラン・ジラルデに変更)。次がトロワグロ兄弟(同トロワグロ)、その次がエーベルランさん(同オーベルジュ・ドゥ・リィル)、ジャン・ドラベーヌさん(同キャメリア)、最後がアラン・シャペルさん(同アラン・シャペル)。みんなミシュランの三ツ星で特別な人たちです。中でもアラン・シャペルさんは「厨房のダ・ヴィンチ」と呼ばれていました。神に一番近い人と言われ、フランス人でも話しかけられないオーラがある。そこで二七歳から二八歳まで修業しました。
木村☆そして三〇歳でレストランのオーナーシェフになられたんですね。
三國☆なぜ、三〇歳かというと、恩師の村上料理長に二〇歳のとき「一〇年後はきみたちの時代が来る。それまでは、きちっと修業しなさい」と言われたからです。
5人の神様のひとり、ジラルデさん(中央)は、20世紀における最高のフランス料理人のひとりとして知られている。
写真提供:株式会社ソシエテミクニ
五〇代からの生きるエネルギーは
子どもたちの食育「キッズシェフ」
木村☆その店も二〇一五年で三〇周年。三國さんは常々「清潔感」、「正直」、「温かい」を心がけていらっしゃるそうですが具体的には?
三國☆自分で言うのもおこがましいんですが、高級店ではお客さまが非常に緊張されます。ですからスタッフが硬くなってはダメなんです。いまはスタッフも、お客さまと会話しながら、いい意味での緊張感とリラックスで「温かい」接客をしていますが、この雰囲気になるまでに三〇年かかりました。うちはドレスコードもないんですよ。不必要なプレッシャーはかけない方がいいという僕の考え方です。「正直」については、食品偽装問題とかいろいろありますが、悪意の偽装は許されませんが、人間、間違いはある。そのとき、ちゃんと謝れるかどうか。正直にやりなさいということです。
木村☆一時期は五〇歳で引退を考えられたそうですが、いまこうして生き生きと現役を続けていらっしゃいます。読者にその心の変化の秘密を教えてください。
三國☆三〇歳でお店を開き、一九八六年に一億総グルメのブームがやってきてもてはやされて……ふと四〇歳を過ぎた頃、後ろを振り返ったら誰もいなかった。いろいろ勲章をもらったけれど何なんだろう、辞めたい……。そんなときNHKの『課外授業ようこそ先輩』という番組に出る機会をいただき、小学生に食育の授業をしました。驚いたのは、子どもたちはトマトが赤くなる前に緑色だと知らないんですよ。味覚には、甘い、しょっぱい、酸っぱい、苦い、うま味の五つがあるんですが、濃い味に慣れ、テレビやスマホを見ながら食べ物を飲み込むから、味覚が育たない。味覚は親から子、孫へ、三代かかるんですよ。それで二〇〇〇年から全国の小学校で食育の授業「キッズシェフ」を始めました。子どもたちのキラキラする目を見て、瞬間に我に返ったんです。これからの人生は子どもたちにフィードバックするためにあるんだと。食育の授業をやると自分の原点に返れます。
木村☆味覚は集中力や人格形成にも重要といいますからね。スローフードの運動にもご尽力されています。最後に、今後の夢をお聞かせください。
三國☆この九月、つまり東京オリンピック開会式から五〇年目という日に、二〇二〇年の東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会顧問会議の顧問に選出されました。六年後、世界のお客さまをお料理でどうやってもてなすかが、僕のいまの最大のテーマです。五〇年前、村上料理長がオリンピック選手村の総料理長を務められたんですが、四〇〇人の料理人が必要でした。二年前のロンドンでは八〇〇人、二〇二〇年は一〇〇〇人から一五〇〇人。それも清潔感、正直、温かい心がそろった料理人が必要です。でも、いま招集をかけても一〇〇人も集まらないでしょう。じゃあ、どうするのか。村上料理長は五年かけて、全国の料理人を育てていかれました。われわれも六年後に向けて、北海道から沖縄まで、料理人との勉強会をスタートさせました。自分の夢は、その大仕事をやり遂げてからですね(笑)。
木村☆パワフルなお話を、ありがとうございました。われわれ世代も、もっともっとがんばらねばと、大いに刺激を受けました。
キッズシェフでは、子どもたちに食の楽しさや、地元の食文化のすばらしさを学んでもらう味覚の授業です。
写真提供:株式会社ヤヨイサンフーズ
対談後記
お会いするまでは、五月人形に登場する鐘馗様を思わせる風貌に恐れをなし、「こんな人に怒られたらさぞかし怖いだろうな」などと思っていたのだが、その心配は杞憂に終わった。「これが、料理人として異例の速さで階段を駆け上がり、経営者としても結果を出し、日本の高級フランス料理界の次元を変えたとまで言われる、世界の三國さんか!」と思わせるくらいフランクにお話して頂いた。他を圧倒する強烈な生き様は、「明日は東京へ出て行くからは、何が何でも勝たねばならぬ」と「王将」に謳われた彼の天才棋士を想起させるものがある。幾多の苦労をものともせず、壁にぶつかるたびに、持ち前の勘と負けじ魂で道を切り拓いてきた三國さん。別れ際に握手した手の温かかったこと。
三國 清三(みくに きよみ)1954年、北海道増毛町生まれ。中学卒業後、夜間の調理師学校を経て札幌グランドホテルで修業を始める。帝国ホテルに移り、当時の村上信夫料理長に見いだされ1974年、20歳で駐スイス日本大使館の料理長に就任。大使館退任後も「ジラルデ」「トロワグロ」など三ツ星レストランで修業を重ねる。1983年帰国。1985年、東京・四ッ谷に「オテル・ドゥ・ミクニ」を開店。1999年、ルレ・エ・シャトー協会の世界5大陸トップシェフの1人に選ばれる。2000年、九州・沖縄サミット福岡蔵相会合の総料理長を務める。この頃から味覚を通して子どもの感性を育てる「キッズシェフ」を開催し、食育に尽力。2004年『ニューズウィーク日本版』「世界が尊敬する日本人100人」の1人に選ばれる。2007年、「現代の名工」受賞。2013年、フランスの食文化への功績が認められ、フランソワ・ラブレー大学で名誉博士号を授与される。著書に『前進力』(講談社)など。
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